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格闘技PRESSBACK NUMBER
“右目を失明しながらヒクソンと対戦した男”中井祐樹はなぜ憧れていたUWFと決別したのか?「真剣勝負にキャメルクラッチはありえない」
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph bySusumu Nagao
posted2022/05/13 17:01
『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』決勝でヒクソン・グレイシーと対戦。同試合に至る経緯は増田俊也氏の著書『VTJ前夜の中井祐樹』に詳しい
実際に練習を見学させてもらい、帰り際には試合ビデオを1本購入した。
「札幌に戻ってビデオを見たら、ブレイクがある。自分からしたら(七帝ルールではなく)講道館ルールだと思いました。ブレイクなしでないとホンモノの格闘技ではない気がしたけど、立ち技に戻しても再び寝技になりやすいのでよし、と解釈するようにしました」
4年生のときに七大戦で優勝すると、中井はためらうことなく北大を中退した。大人しく卒業して社会人を目指していれば、それなりの収入や地位を得ることはそう難しくなかったはずだったが、後悔など微塵もなかった。
「美しく表現すると、やりたいこと(格闘技)を見つけたので大学を中退したことになるのかな。でも見方によっては、学問を探究することができなかった挫折者です。いずれにせよ、(寝技の)職人畑に入るための理由が欲しかったんでしょうね」
それでも、「大学に通ってよかった」という。北大に入学し、柔道部の門を叩いたからこそ、自分に欠けているものや得意なことを知ることができたからだ。
「卒業はできなかったけど、いろいろなことを悩みながらも真剣に考えることができた。トータルしてみたら、人生の勉強ができたかなと。そして何もないなら、なんらかの“職人”になるしかない、ということがよくわかった。北大にいる間に『自分にはほかに何もない』と知ることができて本当によかったです」
柔術家として再起し、「パラエストラ」を設立
決勝でヒクソン・グレイシーと対戦した『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』後、中井はプロシューターとしての復帰を目指したが、右目の視力が戻らなかったために断念。ブラジリアン柔術家として再スタートを切った。柔術も寝技に大きな特徴がある。七帝柔道をやっていたことが、柔術家・中井の大きなアドバンテージになったことは想像に難くない。
中井は「あの時代のグラウンドは正直みんなザル。UWFの影響かもしれないけど、“寝技はサブミッション”だと思っていた」と述懐する。
「その前にポジションをとるという概念がなかったですから。グラウンドでのパンチが入ることで、みんなようやく理解した感じでしたね」
中井が国内のパイオニアのひとりとして柔術家に転向してから二十数年、国内の柔術の愛好家は3万人を超えた。多くの格闘家を輩出した総合格闘技道場「パラエストラ」を設立した北の賢人は、今夏、上京して30年目を迎える。<前編から続く>
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