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高梨沙羅に「謝れ」は論外、でも「謝るな」も危ない…アスリートの自然な心の動きと謝罪を選択する自由
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph byJIJI PRESS
posted2022/02/20 06:00
失格を言い渡され、肩を落とす高梨沙羅
スポーツを考えると「自由」とやたらにタイプしてしまう。「じゆう」「じゆう」と、ひらがな入力のキーボードを叩く。
真剣勝負の闘争的(競争的)スポーツには勝敗がつきまとう。結末の問答無用は人を自由にする。環境に差があって敗れても究極のところで言い訳は無用。虚栄や虚飾もたちまち意味をなくして、そこが自由だ。あっけない結果をめがけて身体と知力をとことん磨く。なんと人類は自由なのだろう。
スーツのゆるみがジャンプの浮力を招くので合法の「ぎりぎり」を狙う。気持ちはわかる。でも寒気によって計測前の筋肉の腫れが想定に届かずに、わずかに失格、なんて報道を読むと、窮屈になってくる。あまりにも細部をきわめて、かかわる者すべての心身の健康を害しかねない。
計測員がメジャーを縦横に走らせながら「ミリ」の誤差を逃がさない。仕立て屋さんなら信頼できるが、はたしてスポーツの範疇なのか。
連鎖的にラグビー選手のジャージィが思い浮かんだ。背中のてっぺんのあたりが隆起している。GPSが装着されており試合や練習での運動の質量を測る。GPS、全地球測位システム。呪いの言葉だ。日常から解放される営みと信じたいスポーツのそのアスリートたちが地球規模の追跡システムによって監視されている。
ジャンプのスーツについてのニュースにも「空気透過量」なる字の並びが登場する。教室の「空気透過量」の勉強にあきて雪山へ飛び出し、滑って転んで、ついでに空を飛ぶ。そんな牧歌的なイメージとトップ競技の距離はこれ以上ひらかなくてよい。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。