オリンピックPRESSBACK NUMBER
高梨沙羅に「謝れ」は論外、でも「謝るな」も危ない…アスリートの自然な心の動きと謝罪を選択する自由
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph byJIJI PRESS
posted2022/02/20 06:00
失格を言い渡され、肩を落とす高梨沙羅
「皆んなのメダルのチャンスを奪ってしまった」「皆んなの人生を変えてしまった」。ここでの「皆」とはチームの仲間だ。漠然たる「世間」ではない。
ひとりの失敗が同士にして他者でもある同僚の成績に直結する。そんな厳しさ、残酷さは団体競技の醍醐味でもある。ひとつの突出した才能だけでは勝てない。ときに才能のつまづきを伏兵が補う場合だってある。だから勝てば、なおさらの喜びが待っている。
まずは各国の腕利きスキー記者によるスーツ検査をめぐる実相の解明を待ちたい。SNSでの発信や反応が有名無名の競技者におよぼす負の影響に関しても専門家のさらなる研究は求められる。自由な意思による発言も、結局のところ、世の中のありさまと無関係ではない。それはそうだ。過去の批判やいわれなき中傷が「申し訳ない」を呼ぶのだ、との解釈もありうる。
「仲間に謝りたい」という自由
ADVERTISEMENT
それらを前提に、なお「失格」の当事者にしたら、なにはともあれ同士に急ぎ心境を伝えたいのではないか。「申し訳ありません」。他人が求めるのは絶対に間違いだが、本人にすれば自然な心の動きである。「チームを応援してくださった皆さま」がその先につながる。
「謝らないでおくれ」と願うのはもちろん自由である。「謝れ」は論外だ。ただし「謝るな」にも気をつけなくてはいけない。そこにはスポーツ界を含む日本社会の同調圧力や忖度の跋扈に対するアンチの感情が投影されている。個人として同意するところだが、ひとりのスキー選手にまるごと重ねては筋が違う。
悪魔であるはずのない高梨沙羅は聖人でもない。自分の行動を自分で決める25歳である。「仲間に謝りたい」という自由を行使すればよい。