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原田哲也は最初から速かった…WGP1年目の天才的テクニック、98年カピロッシに奪われた王座、01年加藤大治郎との激闘
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph bySatoshi Endo
posted2022/01/08 11:00
日本人として初めて、海外のファクトリーチームと契約した原田。メーカーの後押しなく、純粋にその速さを買われてのことだった
この年、チャンピオンを獲得したのは、250ccクラスのシーズン最多記録となる11勝を挙げた大治郎。対して原田は3勝、2位7回という戦績で、その2位のほとんどが大治郎との一騎打ち。手に汗握る勝負の連続だった。チャンピオンが決まったのはラスト2戦となった第15戦マレーシアGP。このとき原田は31歳。大治郎は25歳だった。
思えば原田は、自身が全盛を誇ったころに全日本ロードにデビューしてきた大治郎の才能を高く評価していた。「もし、自分がチームのオーナーだったら大治郎を乗せるね」と言い、最後まで正々堂々の戦いを繰り広げた。
天才は天才を知るという言葉がある。シーズンが終わったとき原田は、「接戦に見えるけど、正直、全然相手になってなかったよ」と振り返った。そして、02年、原田は250ccクラスから当時常勝を誇ったホンダの500ccマシンにスイッチ。しかし、時代は4ストロークエンジンのMotoGPクラスへ。サテライトチームの2スト500ccマシンに乗る選手たちの活躍の場はなく、この年を最後に彼は引退した。
チャンピオンならではのオーラ
それから20年が過ぎたいま、日本人の現役ライダーに彼の走りを知る者はいない。僕はこれまで若い日本人ライダーたちに、原田哲也、加藤大治郎といった日本が生んだ天才ライダーたちの「言葉」を伝えてきた。マシンがどんなに進化しようと、タイヤのグリップがどんなに上がろうと、バイクを速く走らせるテクニックは基本的に変わらないからだ。
「あのころは本当に生意気だったでしょ」と、いま51歳の原田哲也は笑うが、常に判断を求められる世界だけに、イエス、ノーをハッキリ言えることもまた重要な要素である。現役時代、彼は取材陣に対しても、厳しかった。レースのことをちゃんと学んで欲しいと「プロの仕事」を求めたからだ。
そんな彼が、当時語ったこんな言葉が実にかっこいい。
「レースで勝っても、自分から喋りたいことはあまりない。また次のレースもあるし、喜んでいられないから。目標は1回勝つことじゃないし、チャンピオンを獲ることですからね」
彼のインタビューはいつも緊張した。チャンピオン特有のオーラを強烈に感じさせるライダーだった。
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