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中田英寿が駄菓子屋で言った「お前には最後までピッチにいて欲しかった」“同級生”小泉監督が韮崎サッカー部に伝えること
posted2021/12/27 11:06
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
山梨県立韮崎高校サッカー部は今年で創部99年を迎えた。
歴史は古く、選手権初出場は1935年度大会。以降、出場回数は歴代4位タイの34回、勝利数は歴代7位の51勝、準優勝は5回を誇る高校サッカー界きっての古豪である。79年~83年度大会には5年連続でベスト4入りを果たし、この記録を打ち立てたのは韮崎と国見(長崎)の2校しかいない。
強豪校として全国に名を轟かせ、そして深緑のユニフォームのインパクトも相まって、山梨県にサッカーどころのイメージを定着させた。
OBには塚田雄二、羽中田昌、深井正樹、柏好文といった現在もサッカー界に影響を与える人物やJリーガーを輩出。中でも真っ先に思い浮かぶのは、やはり中田英寿だろう。在学中から世代別日本代表に名を連ね、Jリーグ入団時には全12クラブのうち11クラブから誘いを受けた。
しかし近年の韮崎は、山梨学院や帝京第三、日本航空といった私学勢力の台頭を受け、全国大会への扉をこじ開けられない時期が続いた。それでも直近では2年前にはインターハイに出場し、今年の選手権予選決勝にも駒を進めるなど、公立校ながら力を維持してきたことは賞賛に値する。
そんな伝統校に特別な思いを抱く、元Jリーガーが母校に帰ってきた。
中田英寿と同期の小泉監督
今春から指揮を執る小泉圭二監督は、同級生である中田英寿とともに高校2年で選手権出場を果たし、高3時にはチームでキャプテンを務めたOBだ。小柄ながらテクニックとスピードを生かしたアタッカーとして活躍した後、中央大を経て、1999年にJ2ヴァンフォーレ甲府に加入。わずか1年でプロ生活を終えたが、そこから山梨県の高校で指導者としてキャリアを歩み、晴れて母校の指揮を託された。
地元・韮崎市出身の小泉にとって、幼少期から韮崎高のサッカーは身近な存在だった。
当時通っていた幼稚園とサッカーグラウンドは道路を挟んで向かい合う場所にあったし、試合中継のハーフタイムに流れるチーム紹介の映像には幼稚園児の小泉がエールを送るシーンも残っている。小泉が幼稚園年長の頃の韮崎高には羽中田、保坂孝らタレント揃いで優勝候補の筆頭に挙げられており、実際に清水東との選手権決勝戦も国立競技場で生観戦した。
幼いながらにも韮崎高サッカー部に進むことは、小泉にとって当たり前の目標になっていた。