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藤枝東が「サッカーの街」の象徴になった理由…不織布マスクも看板もぜんぶ藤色、体育の授業では全員スパイク着用

posted2021/12/27 11:07

 
藤枝東が「サッカーの街」の象徴になった理由…不織布マスクも看板もぜんぶ藤色、体育の授業では全員スパイク着用<Number Web> photograph by Takahito Ando

静岡県予選で静岡学園に敗れ、選手権出場を逃した藤枝東

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安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

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Takahito Ando

12月28日から、100回という節目を迎える高校サッカー選手権が開幕する。今回は、惜しくも敗れて出場を逃した「伝統校の今」をテーマに3校を密着取材。#2ではサッカーの街・藤枝市の象徴である藤枝東高校の今に迫った。国立を藤色に染めたいと語るOB監督の思いとは?(#1「韮崎高校」編、#3「武南高校」編へ)

 駅の改札を出ると、『蹴球都市 FUJIEDA』という文字が真っ先に目に飛び込んできた。それに並ぶのは『サッカーと、時間(とき)を刻む』というメッセージ。堂々と佇む看板の色は、もちろん薄紫色だ。

 驚くなかれ、駅のロータリーですれ違った年配の女性の帽子とマフラーも、さらに今や必須アイテムとなった不織布のマスクも、この街ではすべてが薄紫色なのである。

 静岡県藤枝市――“サッカーの街”として知られる。J3藤枝MYFCの本拠地となっているこの街を語るには、JR藤枝駅から車で10分ほどのところに位置する静岡県立藤枝東高校をなくして語れない。選手権優勝4回、準優勝3回。インターハイ優勝2回、準優勝1回を誇る、高校サッカー界の超名門だ。

 筆者は街で見かけた情景を「薄紫」と表現したが、この地域の人たちはそれを「藤色」と呼ぶ。藤色のシャツに白いパンツ、左胸には「藤枝」と刻まれる伝統のユニフォーム。袖を通した中山雅史や長谷部誠といった選手たちは、のちに日本を代表するプレーヤーへと成長を遂げていった。

「紫と言ったら藤枝の人に怒られますよ。これは藤色。藤枝東がサッカーで台頭したことで、一気に『藤色=藤枝市』から『藤枝東=藤色』になっていったと思います」

長谷部、成岡らとインターハイ準優勝

 笑顔を浮かべながら、どこか誇らしげに指摘するのは、藤枝東高校サッカー部を率いる小林公平監督(37歳)だ。彼もまた藤色のユニフォームをまとったOBの1人で、1学年上である長谷部誠や同級生である大井健太郎や成岡翔、岡田隆らと共にインターハイ準優勝を経験した。

 そもそも、藤枝市はなぜ“サッカーの街”になったのか。少し歴史を振り返ってみたい。

 契機は今から100年ほど前。1924年に前身である静岡県立志太中学校が開校。初代校長である錦織兵三郎は「体育」を重視した教育を掲げ、当時はまったくポピュラーではなかった蹴球(サッカー)を“校技”としたことが始まりだった。57年に藤枝市が国体のサッカー競技を誘致したことで、市内のサッカー場の整備が加速。静岡のサッカー文化隆盛と共に藤枝東サッカー部も自ずと強化を進めてきた。62年度の第41回全国高校サッカー選手権大会では初の全国制覇を、翌42回大会で連覇を達成。全国にその名を轟かすようになり、藤枝東は街の象徴となっていった。

 それを象徴するのが、藤枝市役所にある「サッカーのまち推進課」という部署だ。サッカーを通じた地域振興を謳い、またサッカー強化を目的に多くの大会を藤枝市で行ってきた。現在、各地で開かれるユース年代の強化・交流を目的とする「サッカーフェスティバル」は、この藤枝市が1970年に行った「藤枝フェスティバル」が発祥と言われている。学校からサッカー文化が生まれ、やがて地域に定着。それを丁寧に育んできた手法は、やがて全国の見本になったというわけだ。

【次ページ】 小林監督が抱いた「藤色」への憧れ

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