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ノムさん「あいつはいうことを聞かん」小5で野球をやめた“2世”長嶋一茂がヤクルトに入り、巨人にトレードされるまで
posted2021/05/17 17:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
JIJI PRESS
「何が起こったかと思った。エンペラー(天皇)が球場に来たのかと思ったよ」
1988(昭和63)年4月9日、巨人の助っ人ビル・ガリクソンは、東京ドームで突然起こったすさまじい拍手に、マウンド上で面食らった。8回表二死、ヤクルトの攻撃。ジャイアンツのホーム球場なのに、その巨人ファンも大騒ぎしている。皇族でも来場したのだろうか? 元大リーガーは戸惑う。まさか、代打を告げられて打席に入った背番号3の新人が原因だとは思いもしなかった。この長嶋一茂のプロ初打席は3球目を打ち二塁ゴロに終わるが、4月27日の神宮球場では同じガリクソンから、プロ初安打初本塁打をバックスクリーンにぶち込んだ。異様な大歓声に包まれる神宮劇場。なんと、巨人が勝利したにもかかわらず、試合後のヒーローインタビューには“プラチナボーイ”が呼ばれた。
「ビル、お前さんはそれだけで有名人さ。長嶋監督の息子・一茂にプロ入り第1号ホームランを打たれた投手として、名前が残るよ」
数年後、「週刊ベースボール」の企画で元同僚を訪ねたクロマティはそう笑い、メジャー復帰して20勝投手にもなったガリーを茶化す。88年当時のナガシマジュニアへの注目度は、イチ新人選手としては、プロ野球史上最高クラスだった。なにせ日本一有名な男を父親に持つ青年が、そのオヤジと同じ職業に就いたのだ。
野球を辞めた“息子”がヤクルトに入るまで
87年ドラフト1位で立教大学からヤクルトへ。チームを率いる関根潤三監督とは、一茂が中学1年のときに一緒に大リーグ観戦ツアーに参加して以来の再会。実はヤクルトと大洋の2球団が1位で競合したドラフトの目玉は、小学5年時に一度野球を辞めている。リトルリーグでプレーするも、マスコミの無神経な取材攻勢に嫌気がさしたのだ。だが、中学3年の秋に事件が起きる。