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「自分がヒヨッコに見えた」山縣亮太はなぜ“短距離のタブー”筋トレを始めたのか? パリ五輪では「2~3キロ増量」の理由
text by
倉世古洋平(スポーツニッポン新聞社)Yohei Kuraseko
photograph byYUTAKA/AFLO SPORT
posted2021/11/04 06:00
東京五輪での悔しい思いを胸に、再びパリ五輪へ向けて歩みを始めた山縣亮太。来年30歳、スピードへの探究心はまだ尽きそうもない
山縣が肉体強化を始めたのは、15年シーズン後からだ。そのシーズンは腰痛でまともに走れなかった。苦い経験から、故障の予防を兼ねて取り組んだ。プロゴルファーの石川遼ら、数々のアスリートを手がける仲田健トレーナーを専属に付け、体つきがみるみる変わった。首と肩の間の筋肉である僧帽筋が際立って盛り上がり、胸板が分厚くなった。お尻も大きくなった。その影響で、こんな失敗もした。16年に、確かソバ屋で、照れ笑いをしながら話してくれた。
「お尻が大きくなったことでジーンズの後ろポケットに入れていた財布が飛び出してしまって……。気づいたら財布を落としていて、3万円くらいなくしたんですよ」
日本のスプリント界では、ダンベルやバーベルを使って筋肥大をさせるような筋トレをタブー視する風潮があった。「体が重くなる」、「体のキレ、しなやかさがなくなる」、「筋肉が硬くなる」など、要因は様々だ。日本の野球界も、同じような理由で、投手の鍛えすぎは良くないとされてきた。その伝統と、どこか通ずるところがある。
山縣も、15年に腰痛を発症するまでは、筋トレ否定派だった。18年の福井国体の後、小松空港へ向かう車の中でインタビューをした。15年シーズン後に肯定派に変わった理由を、こう語っていた。
「自分も筋トレはダメだと考える時期がありました。走る筋肉は、走って付けるべきだと考えていました。でも、足を速くするために何をしていいのか分からない時期があって。このままのやり方で競技を続けても、多分、ここで終わりなんだなと限界を感じる瞬間が何回かあって。ウエートトレーニングをやって遅くなった人も、速くなった人もいる。だったら、速くなる方にかけようと思ったことがきっかけですね」
秀才の火をつけた肉体への興味
地元広島の進学校、修道中・高を出た秀才は、興味の火が付いたら、止まらないタイプ。肉体改造へ突き進み、現在の70キロ台前半の体を造り上げた。タイムは飛躍的に伸びた。筋トレ導入以前となる15年までの自己記録は10秒07。鍛え始めると、16年に10秒03、17・18年に10秒00を出し、そして今年、9秒台に突入した。
トレーナー陣が変わった今でも、筋トレの数値が調子のバロメーターになっている。床に置いたバーベルを胸の高さまで持ち上げる「クリーン」と呼ぶ種目がある。レースの数週間前に120キロをきれいに持ち上げると、「パワーは申し分ないというレベル。そこからうまく調整すると、100メートルがめちゃくちゃ速くなる」という山縣流の好タイムの方程式ができ上がった。
6月6日の布勢スプリントも方程式どおりだった。5月11日に120キロを持ち上げた。そこからスピードトレーニングを重ねて、9秒95が誕生した。だが、10秒27で3位だった日本選手権も、予選落ちをした東京五輪も、120キロが壁になった。五輪前は115キロが限界だった。
「クリーンの数値は1つの指標でしかないはずだけど、(120キロを上げられなかったことで)五輪ではなんか力が入りづらいという感覚がぬぐい切れなかった」