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「(松坂)大輔を一度だけ注意したのは、イチローとやったとき」東尾修がいま明かす、22年前ルーキー松坂を初めて見た日の“不安”
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph bySANKEI SHIMBUN
posted2021/11/05 17:03
1998年度のドラフトで日本ハム、横浜ベイスターズ、西武ライオンズの3球団競合の末、西武に入団した松坂大輔。東尾修監督(当時)が交渉権を引き当てた
「もうこの時期は右肩が左膝までこなくなっている。メジャーの硬いマウンドで投げて、色々なところを痛めていたから。突っ立って投げている感じがするでしょ」
それは36歳の松坂だった。先ほどの写真と構図は同じだったが、背番号は見えなかった。メジャーリーグでの戦いを終えて、日本に戻ってきた松坂はスピードボールでねじ伏せるのではなく、打者の狙いやタイミングを外して打ち取るスタイルに変化しようとしていた。かつての東尾がそうだったように、それは200勝をめざす投手なら誰もが通る道なのかもしれない。
「ただ悲しいかな、大輔の場合は手先が不器用だから……。そういう投球をしようと思ったら、関節の柔らかさと器用さが必要なんだ。俺はパワーでは大輔に10倍負けるけど、指先の器用さは10倍勝ってるよ」
「大輔を一度だけ注意したとき」
細かな雨が降り続いていた。東尾は窓の方に目をやると、再びページを1999年の松坂に戻した。そして、ふっと笑った。
「試合中、大輔に代わるか? と訊いたことはなかったな。訊いたら、投げるって言うに決まってる。だから代えるときはこっちで断定する。逆に150球超えていても、いけると思ったらどんどんいかせた。俺の時代はストッパーとかいなかったから、最後まで投げるもんだと思っていた。でも大輔の時代はストッパーやリリーフが確立されていた。それでも大輔は投手ってどんなものか、よくわかっていたよ。そこは他のピッチャーとは全然違った」
東尾の顔がさらに綻んだ。
「唯一、注意したのは、イチローとやったときだけ。あいつ、イチローとの対戦を楽しむみたいに投げていたから。それより、チームの勝ち負けの方が大事だぞって。でも右から左に聞き流していたと思うよ(笑)」
ライオンズ、世代の仲間たち、日本球界、あらゆる期待を背負って投げ続けてきた松坂は、ついに投げられなくなった。逆に言えば、投げられなくなるまで投げた。
日米通算170勝。そこで物語は終わった。約束のボールは宙に浮いた。
ただ、東尾の言葉を聞いていると、あのボールの持つ意味が単純に数字だけの約束だったのだろうか、という気がしてくる。
童顔のわりに頑なで、投げてくれ、勝ってくれという祈りに応えずにはいられない。その強さが平成という時代を彩った。
「あのボール? 返してくれたって、俺は孫に渡すだけだから。どう使ってくれたっていいよ。あいつのことだから、もらったもんはもらったもんですって言うかもわからないし(笑)」
東尾はそう言って席を立った。傘もささず表に出ると、霧雨の中を去っていった。その背中にもう寂寞は感じられなかった。
東尾が去ったテーブルの上には雑誌が開かれたままになっていた。ページの中で、いまだ色鮮やかな1999年の松坂が、踊るように投げていた。