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「(松坂)大輔を一度だけ注意したのは、イチローとやったとき」東尾修がいま明かす、22年前ルーキー松坂を初めて見た日の“不安” 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph bySANKEI SHIMBUN

posted2021/11/05 17:03

「(松坂)大輔を一度だけ注意したのは、イチローとやったとき」東尾修がいま明かす、22年前ルーキー松坂を初めて見た日の“不安”<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

1998年度のドラフトで日本ハム、横浜ベイスターズ、西武ライオンズの3球団競合の末、西武に入団した松坂大輔。東尾修監督(当時)が交渉権を引き当てた

「親御さんと大輔に会うわけだから、誰にもわからないように、新聞記者にも見つからないところにしなけりゃいけなかった」

 極秘裏に設定された入団交渉の当日、東尾は自宅を出る前に1つのボールを手に取った。娘の部屋に飾っていた自身の通算200勝記念球だった。まだライオンズが福岡に本拠地を置いていた西鉄時代から積み上げて、ようやく手にした勲章である。

 東尾は初めて顔を合わせた松坂に、球団と自らのビジョンを説明すると、最後にボールを取り出した。

『このボールの重みを感じてほしい。君が200勝したら返してくれ――』

 そう言って、まだあどけなさの残る青年の右手に握らせた。ライオンズブルーのユニホームに袖を通すことを決めた松坂と、巨大な才能を預かることになった東尾にとって、それは約束のボールとなった。

「そういう選手は短命なんだ」

 だが、東尾の台詞はその後、少しずつその意味を変えていくことになった。なぜなら、松坂が投げる姿を直に見たとき、東尾には彼のとてつもない可能性とともに、これから直面するであろう辛苦も想像できてしまったからだ。

「1年目の1月だったかな。新人選手の自主トレのとき、初めて直接、大輔の投げるところを見たんだけど、足首も肩甲骨も、関節が硬いんだよ。だから強くてパワーが出る。短距離の選手みたいだった。でも逆にそういう選手っていうのは短命なんだ。長所でもあり、短所でもある」

 東尾は和歌山の箕島高校でエースとして鳴らし、松坂と同じように高校を出てすぐ西鉄ライオンズに入団したが、早くに自らのスピードボールに見切りをつけた。その代わりに武器としたのが、打者のタイミングを外す変化球と、その制球力であった。力に頼らない投球術によってプロのマウンドに20年生き残り、最初の10年で128勝、後半の10年で123勝と息長く勝ち続けた。その秘訣が心と身体の“柔らかさ”であった。200勝という長い道のりを考えたとき、松坂の硬さゆえの強さには一抹の不安を覚えたのだ。

なぜ(西武ドームではなく)東京ドームでデビューさせたのか?

 誰もが平成の怪物に160kmの夢を託していたとき、東尾はそのずっと先を見据えていた。だから2月のキャンプ、最初のクールでは捕手を座らせてのピッチングをさせなかった。次のクールでは彼が得意とするスライダーを禁じ、代わりにカーブを投げろと命じた。

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