酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
新庄監督や立浪監督と比べてシブい人選だが… 藤本博史監督57歳が「ホークスの伝統」を継ぐ適任者なワケ《若き柳田悠岐らを育成》
posted2021/11/02 11:07
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Koji Asakura
筆者がこれまで、一番多くプロ野球を見たのは、おそらく1988年である。
当時、大阪・北新地近くの御堂筋のど真ん中にあるビルでサラリーマンをしていたが、午後6時になると「お疲れ様」とも言わずにエレベーターで1階まで下りて、タクシーを捕まえて3メーターくらいで大阪球場まで駆けつけた。そうすると6時半の試合開始にちょうど間に合う。チケットなど買っていなかったが、いつ行ってもガラガラだったから入れないなんてことはなかった。
お目当てはただ一人、南海の4番・門田博光だった。当年40歳だったが、この年の打撃は神がかっていた。バットを左耳の横あたりにぴたりと構えると、全く動かない。次にバットを一閃すると、打球は右翼スタンドに飛び込んでいたのだ。
門田の次代を継ぐホークスの主軸候補だった
しかしながら、門田の前後を打つ打者はなかなか育ってこなかった。門田博光はずっと「孤峰」だったのだが、1988年になってようやく2人の主軸候補が登場したのだ。
1人は入団5年目の岸川勝也。そしてもう1人が7年目の藤本博史だった。藤本は門田博光と同じ天理高校出身。左の門田に対して岸川、藤本は右打ち。門田を挟んで中軸を打てばジグザグの強力な打線の山脈が完成する。
門田は身長170cmしかなかったが、肩幅は広く、上体はぶ厚かった。奈良県に住んでいて近鉄特急で大阪球場に通っていたが、スーツに身を固めた通勤姿は、重戦車のようだった。
これに対して藤本は183cmの長身。後年は肉付きがよくなるが、当時はまだ標準体型。柔道をしていたということもあり骨格はがっちりしていて、なかなか端正な顔つきをしていた。門田と並んでバットを振れば、実に頼もしい弟分という感じだった。
南海での最終戦でマルチ安打をマークした
ご存じのように、南海ホークスはこの年限りでダイエーに身売りをして福岡に去った。本拠地大阪球場での最終戦は10月15日の近鉄戦だったが、この日の4番はもちろんDHの門田。6番右翼で岸川勝也、8番三塁で藤本博史がスタメン出場していた。岸川はこの試合で決勝の2ランホームラン、藤本も2安打を打ち、福岡でのホークスの活躍に大いに期待を持たせたものだ。
試合後、杉浦忠監督を先頭に南海ホークスの選手たちはグラウンドを一周した。「グランド照らす太陽の」の球団歌が切なく、私は二度とプロ野球チームなんか応援するか——と思ったものだが、岸川、藤本など若手選手の気持ちは違っていただろう。