酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
新庄監督や立浪監督と比べてシブい人選だが… 藤本博史監督57歳が「ホークスの伝統」を継ぐ適任者なワケ《若き柳田悠岐らを育成》
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKoji Asakura
posted2021/11/02 11:07
ダイエーで現役時代の藤本博史。監督としてホークスの次代を築き上げられるか
「九州へ行って、一旗あげたる」「ダイエーの中内オーナーは大金持ちやから、頑張ったら年俸上げてくれるやろ」
こんな風に若い野心を燃やし続けていたはずだ。
門田がオリックスに移籍する中で
オフになると門田博光が「九州にいくのは嫌だ」と言っているとの報が飛び込んできた。結局、門田は阪急から新球団になったオリックス・ブレーブスにトレードで移籍することになった。
ホークスにとっては絶対的な主砲を失うことはこの上ない痛手ではあったが、岸川や藤本にとっては中軸を窺うチャンスではあっただろう。
昭和から平成へと変わった1989年も、大阪球場に戻ってきたダイエーホークスの試合を何試合か見た。中軸は藤本や岸川ではなく、向こう意気の強い外国人選手のバナザードが打つことが多かった。とはいえ藤本は試合出場機会を着実に増やしていった。
九州に行ってから藤本は口ひげを蓄えるようになった。藤本と岸川は似たような体躯の右打者であり、遠目では区別がつきにくかったが、ひげを生やしてからは見間違えることはなくなった。
九州に行ってからは「こんな打者だったのか?」
藤本は次第に中軸を任されるようになり、1992年には20本塁打を打つ。ただ筆者は九州に行ってからの藤本は「こんな打者だったのか?」と思うようになった。
門田は不動の構えからバットを一閃するや、つむじ風の起こりそうな猛スイングでボールを遠くに運ぶのだが、藤本は実におとなしい構えから、バットにボールを乗せるような感じでスイングするのだ。力ではなく技で打つタイプの打者のように見えた。
結局藤本は通算105本塁打を記録したものの、主要なタイトルには縁がなく、オールスターにも選ばれることなく、キャリアを終えた。
そこからしばらく藤本はプロ野球の現場を離れて九州で解説者になった。そして2011年、ソフトバンクホークスに指導者として復帰するのだ。その時期から、筆者は独立リーグの四国アイランドリーグPlusの試合を追いかけるようになっていた。このリーグは四国の4球団からなるが、これに加えソフトバンクの三軍が交流戦という形で加わっていた。
ソフトバンクのファームの指導者はみんな優秀だった。ロッテの名内野手だった水上善雄は、選手ひとりひとりの目を見て諄々と教えを説いていた。南海のシャープな左打者だった若井基安は育成選手のバッティングを熱心に見ていた。
藤本博史もまた、そういう指導者の一人だった。