酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
イチロー台頭は四半世紀前、合併から16年、阪神人気に隠れ続け… 関西在住筆者が昭和から見た《近鉄・オリックス悲哀史と栄光》
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2021/10/28 17:02
2004年オリックスvs近鉄の最終戦後、胴上げされる近鉄の礒部公一選手会長(当時)。合併から16年、「オリックス・バファローズ」がパの頂点を掴んだ
近鉄バファローズは関西初のドーム球場である大阪ドーム(現京セラドーム大阪)を本拠地にした。当初は人気が高まったが、それでも満員になることは少なかった。2001年、近鉄の北川博敏が「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン釣銭無し」という究極の殊勲打を打ったが、それも一時の華だった。
南海、オリックスの強打者だった門田博光や、阪急のスピードスターの福本豊が引退後、阪神タイガースの試合解説を担当し、オリックスや近鉄の試合中に、他球場の試合経過がスクリーンで流れて阪神が勝っていると、大きな拍手が起こる。そんな状況に複雑な気持ちを抱える関西のパ・リーグファンもいた。
阪神電車も「合併反対」のヘッドマークをつけたが
平成以降もオリックス、近鉄は地味なローカル球団のままで古びていく印象があったが、2004年、両球団は突如「球界再編」の坩堝に放り込まれる。
古田敦也プロ野球選手会長が旗振り役となりストライキが行われ、阪神電車は「合併反対」のヘッドマークをつけて走ったが、結局オリックス、近鉄は合併。楽天が新規参入して2リーグは維持されたものの、1950年以来半世紀以上にわたってライバルだった両球団は合併してオリックス・バファローズになったのだ。
「2つが一緒になったから、お客が増えるやろと思うのは大きな間違いやで」
当時、飲み屋で同僚の近鉄ファンはこう毒づいていた。
事実、2004年のオリックス・ブルーウェーブは141.5万人、近鉄バファローズは133.8万人を動員していたが、2005年のオリックス・バファローズは135.6万人しか入らなかった。両チームのファンは、反対を押し切って合併した新球団を素直に受け入れることはできなかったのだ。
ほっともっとフィールド神戸の外壁には、鈴木啓示、山田久志、福本豊、イチローと近鉄、阪急、オリックスのレジェンドたちの雄姿が描かれていたが、昭和のファンたちは「呉越同舟」のような印象を持っていた。
CSではダルビッシュ、大谷、中田に阻まれ
そんな中で、2007年からクライマックスシリーズが始まる。オリックスは2008年に2位になったものの第1ステージで日本ハム相手に、ダルビッシュ有に素晴らしいピッチングをされるなど0勝2敗で敗退した。
2014年も2位になり本拠地・京セラドーム大阪で日本ハムを相手に戦ったものの、大谷翔平や中田翔の活躍もあって、またしても敗退する。このCSに日参したが、当時、ノーステップのよく似たフォームで打っていたT-岡田と中田翔のホームランの競演にしびれた。そして球場内で、お客の心が一つになっていくような一体感を初めて覚えた。
しかしそれから7年、オリックスはポストシーズンとは無縁のままだった。近鉄最後の生き残りで切り込み隊長の坂口智隆は2016年にヤクルト移籍、エース金子千尋は2019年に日本ハムに移籍、チームの顔は毎年のように変わった。
それでもオリックスには、少しずつ新たな戦力が芽生えてきた。