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《ドーハの悲劇から28年》背番号10・ラモス瑠偉が告白した歴史的ドロー“衝撃の真相”「野良犬みたいな俺をオフトは見捨てなかった」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJIJI PRESS
posted2021/10/28 06:00
1993年10月28日。のちに「ドーハの悲劇」と呼ばれる歴史的試合に挑むラモス瑠偉ら(日本-イラク)
イラクがハーフタイムで豹変した理由
10月28日、アルアリ・スタジアムにキックオフの笛が鳴り響く。選手たちは集中力を研ぎ澄ませ、全力でプレーしていく。1点をリードし、さらに主審の笛も日本寄りだった。W杯はアメリカ開催で、イラクとは敵対する関係だ。少なからず日本に味方しているような雰囲気を、ラモスは感じ取っていた。それゆえ、オフサイドかどうか微妙な場面なら、審判がそのまま流すことも想定に入れていた。
その読みが当たったのが後半24分。前に残っていた中山雅史へのスルーパスは、オフサイドと取られてもおかしくはなかった。だが、相手がオフサイドトラップを掛けてきた瞬間に出すことで副審の目を欺いた。この一発のパスが勝ち越しゴールを呼び込んだのだ。
2-1。しかしラモスには勝利に対する確信はまだなかった。何故なら後半のイラクは、明らかに前半の姿と違っていたからだ。
「流れは日本だと思ったよ。でも後半ピッチに出てくる選手たちを見て、こいつら目が違うなと思った。後で聞いたらハーフタイムに(サダム・)フセインの息子が『お前ら負けたら戦争に行かせるぞ』って言ったとか。俺らは負けたら悲劇だけど、彼らにとって敗北は地獄を意味していた。目の色の変わった後半は、どんどん来るなと思っていた」
「日の丸の誇りを持って、死んでもいいと思って戦えた」
残り15分を切ると、日本の動きが途端に鈍くなっていく。リードした気の緩みではない。最後の最後で、疲労が足に出てしまったのだ。特に動きの落ちた中盤を活性化させるため、ラモスはベンチに向かって「キタザワーッ」とリクエストも出す。だがオフトは武田修宏を選択。多くの選手が疑問を抱いたこの采配に、ラモスは納得してプレーを続けたという。
「オフトは、イラクが前に出てくるから、裏のスペースを利用しようと思い、足の速い武田を起用した。だからオフトの考えは、別に間違っていたわけじゃない。監督を俺は信じていたし、すぐに切り替えられた」
前がかりに来るイラクには決して崩されていなかった。彼らは耐え続けた。残り時間わずかとなってラモスがカズへ出したパスが引っ掛かり、結果的には最後のあのコーナーキックへとつながっていく。疲労の蓄積が、わずかながらにパスのコントロールを狂わせた。
「カズに渡したら、サイドに走ってくれると考えた。もしボールを取られたとしても、2対2なら俺とカズのほうが上。だから大丈夫だと。ただカズも疲れていたから、優しいボールを出してあげたかった」
ラモスはたとえ再び同じ場面が訪れたとしても、「俺は同じパスを出すよ」と言い切った。それはドーハの戦いを象徴する、「誇りのパス」だったからではなかったか。
「イラクも死にものぐるいですよ。俺たちは最後まで受け身になるまいとしたし、仕掛けて勝とうとしていた。怖がってミスしたわけじゃない。すべての力を出し切って、それで引き分けてしまった。そりゃあ悔しいよ。W杯のチケットが手に入りかけていたんだから。でもね、全員が必死でしたよ。それがテレビで見ている日本の人たちに伝わったから、帰国しても『ありがとう』って言ってくれたんじゃない? 俺たちは下手くそだったかもしれない。でも戦ったんだよ、みんな。ベンチのヤツだってみんないつ出番が来てもいいようにってずっと準備して……。日の丸の誇りを持って、死んでもいいと思って戦えたから。ホント、一緒に戦ったドーハのみんなはもう最高の仲間ですよ」