濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
大日本・新エースの“覚悟” ドリュー・パーカーのデスマッチ愛「痛いけど頑張る、まだやれる…」野村卓矢は「ストロングBJが最強だ」
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byNorihiro Hashimoto
posted2021/10/24 11:00
大日本プロレス新世代のエース、ドリュー・パーカー(右、第2代GCWウルトラバイオレント王者)と野村卓矢(左、BJW認定ストロングヘビー級王者)
家から30分ほどのところにプロレスのスクールがあり、10歳から通い始める。ウェールズのプロモーションでデビューしたのは14歳の時だ。平日だったから「お腹が痛い」と言って学校を早退し、会場に向かった。リングネームは「ドリュー・ダイヤモンド」。スクールのコーチがつけた。「なんでリングネームだったのか分からないけど」とドリュー。学校にバレないようにという配慮だったのかもしれない。
16歳でレスリングスクールを離れるとフリーで活動。19歳で初のデスマッチを経験し、アメリカのデスマッチ団体に遠征も。そして夢だった日本のリングへ。世界最大級の“プロレス都市”は試合をするのも見るのも楽しかった。来日から数カ月は、UKマット界の先輩で友人、DDTで活躍するクリス・ブルックスと大会を見まくった。後楽園ホールや新木場1stRINGに取材に行くと、大げさでなく毎日のように2人と顔を合わせたものだ。
「ロンドンもたくさんプロレスのショー(大会)があるけど、東京はもっと凄い。メジャーよりもいろんなインディーの団体を見るのが嬉しくて」
クリスとは休日が合えば一緒に飲む。コロナ前は居酒屋でサワーを飲むのが好きだったそうだ。
「サワーはイギリスにもアメリカにもない。珍しいサワーがあったらそれを飲むし、クリスと話したのはビールも日本が一番じゃないかって。特にサッポロとアサヒがおいしい」
「デスマッチファイターはスーパーマン。でも俺は…」
日本での生活と闘いを楽しむところから、野心が芽生えてきたのは昨年12月のこと。世界的に知られるデスマッチファイター、竹田誠志とのシングル戦がきっかけだった。
「あの時は12月なのにコロナでウェールズに帰れなくて、メンタルがヤバかった。イギリス人は、クリスマスは絶対に家族と一緒にいるものだから」
そういう時に、突き抜けた“クレイジー”っぷりが武器の竹田と対戦し、敗れたものの掴んだものがあった。
「どの技使う、どのアイテム使うじゃなくて、デスマッチはオーラ、エモーションだと思った。ベルトがほしいとか一騎当千で勝ちたいと思うようになったのも竹田さんとの試合から。負けたけどありがとう、竹田さん(笑)」
一騎当千では格上の宮本裕向に勝って勢いに乗った。「デスマッチガイジンNo.1」決定戦と位置づけたビオレント・ジャック戦では新木場の壁をよじ登り、細い足場からトペ・コン・ヒーロでダイブ。決勝戦ではキャリア22年の伊東竜二に勝利した。
伊東戦では背中から大量出血。試合続行が危ぶまれるほどで、それゆえにドリューへの応援ムードも高まった。
「あれはアクシデントだったけど、俺がやりたいのはああいう試合。痛いけど頑張る、まだやれるという感じ。俺は身長が高くないし細い。その俺がデスマッチ頑張ったら、見た人も何かで頑張れるでしょ。プロレスラー、デスマッチファイターはスーパーマン。でも俺はスパイダーマンのタイプ」