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《横浜高同期5人が証言》すべての松坂世代に捧ぐ“マツと俺たち”の物語「最後のマウンドを見て、ひと区切りつけられた」
text by
樫本ゆきYuki Kashimoto
photograph bySankei Shimbun
posted2021/10/22 11:03
1998年8月、甲子園の抽選会で談笑する松坂大輔と横浜高ナイン。当時の3年生31人は、41歳となった今も連絡を取り合い、繋がっている
左投手だった大竹は、入学当初は砂浜を走る「ウミコウ(海の公園)ラン」や、アメリカンノックなどの過酷なピッチャー用の練習に悲鳴を上げながらくらいついた。しかし、追加トレで山道を自転車で駆け上っていく松坂のずば抜けた体力とパワーを見たとき、レギュラーは無理だと確信した。2年夏にイップスになり、サブグラウンドで練習をする「サビーズ」(Bチーム)に降格したが、マネージャーにならず、最後まで選手にこだわった。そのことは自分なりのプライドだった。
野球は高校までだったが、プロ入り後もどんどん進化し、高卒記録を塗り替えていく松坂の活躍をそばで見ていると「この人に天井はないのかな」と本気で思った。20歳で広告代理店に就職。営業に行った先々で「松坂の友達」と呼ばれ、ちやほやされた。「自分にも、名前あるのにな……」。嫌な思いをしたことも少なくなかったが、そのことは心の奥底にしまいこんだ。
07年、松坂がメジャーに行ってからは出勤前の30分間が闘魂注入の時間になった。会社近くのドトールにあるテレビでメジャー中継を見ては「よし今日も頑張るか」と自分を奮い立たせて出社した。仕事で怒られることが多かった20代。松坂の活躍は大きなエネルギーになっていた。
〈内野手の方の・小山〉よく聞かれた「あの松坂とバッテリーの?」
小山哲明は自分のことを「裏小山」と名乗る癖がついてしまっているようだった。この代の横高に小山は2人いて、正捕手でキャプテンの小山良男(現中日スカウト)はあまりにも有名だった。横高の小山と言うと「あの松坂とバッテリーの?」と聞かれてしまう。そんなときは「“裏小山”です」と言っておちゃらけた。
小山は国際武道大卒業後、飲食業の道に進んだ。バーから始まり、お好み焼き屋、ラーメン屋を経て、世田谷の焼肉店「芝浦」の料理長を務めている。07年、松坂のメジャー初年度には共にロサンゼルスに渡り、約1カ月間、自主トレを手伝った。
小山は「人並みにプロ野球選手に憧れていた俺を、プロ野球やメジャーの現場に入れてくれて、疑似体験じゃないけど、夢のような世界を体験させてくれた。それだけで感謝で一杯なんです」と涙する。
店の売り上げはコロナ禍で急落したが、テイクアウトやBBQ販売などの努力で復調し、ようやく回復を遂げている。「最近はヘルシーな赤身が人気。肉は切り方で味が決まるんです」。いつでも松坂を呼べるよう、店で腕を磨いている。