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みのもんたの“幻のセリフ”「五輪、ついに名古屋に決まりましたね」40年前、なぜ名古屋はソウルに完敗したのか?《消えた名古屋五輪》 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2021/10/06 11:02

みのもんたの“幻のセリフ”「五輪、ついに名古屋に決まりましたね」40年前、なぜ名古屋はソウルに完敗したのか?《消えた名古屋五輪》<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

1981年のIOC総会、開催地決定を受けて特番の備えていたみのもんた。「88年のオリンピック、ついに名古屋に決まりましたね」というセリフは幻に終わった(写真は1991年撮影)

直前の新聞「悪くても10票前後の差で名古屋が当選」

 このときのソウルはまさに伏兵だった。何しろ1980年12月になって開催を希望するとIOCに伝えてからも、IOC総会の4カ月前の1981年5月まで確実な決定が国内で下りなかった。ソウルの希望表明後、IOC側が名古屋とともに関係者を招待し、それぞれの中間状態の報告を求めたときにも、名古屋側がすぐにスイス・ローザンヌにあるIOC本部を訪ね、2年前から進めていた準備計画を報告したのに対し、ソウルは誰も送らず回答もできなかった。このため、当時のIOCの夏季大会の責任者は、ソウルは大会を開催する意志がないと考え、候補都市から外したほうがいいと会長のサマランチに進言したほどであった。だが、これに対してサマランチは、候補都市が1つより2つあって競争するのがもっとも生産的であるとして、ソウルは残すよう説得したという(池井優『オリンピックの政治学』)。

 大きく出遅れたソウルだが、その後、じわじわと巻き返していく。1981年6月のIOC理事会に、IOC・国内オリンピック委員会(NOC)・国際競技連盟(IF)が提出した現地調査報告では、「ソウル・名古屋の両都市とも大会開催は十分可能」とされ、ソウルについては競技施設や交通網がかなり整備されている点が高く評価された(メインスタジアムはオリンピックと関係なく建設中だった)。逆にこの点は名古屋は後手に回り、施設も交通網も大半はこの時点でまだ計画段階で、後述するように変更の可能性すらあった。

 準備状況にお墨付きを得たソウルは、IOC総会のためバーデンバーデンに入ると追い込みをかける。現地では6人の公式招致代表団のほか、外交官や政財界人など150人もの支援部隊が、昼夜の区別なく各国のIOC委員やNOC委員に対し説得を行った。また、立候補都市の展示会場では、200枚近いパネル写真を用いた凝ったディスプレーや豪華パンフレットなどを取り揃えた上、チマチョゴリ姿の女性たちをコンパニオンに据えて評判を呼ぶ。隣りのブースでは、名古屋も各競技施設の写真や予想図・模型などを展示した。しかし、地元・西ドイツの新聞各紙からは、見栄えも情報量の多さでもソウルの展示のほうがすぐれており、名古屋は単に写真を並べただけで味気ないと不評を買う。総会の行われる会議場フロアでも、その一角にある机にソウルが数種類の冊子を置いたのに対し、名古屋はポスターを1枚貼っただけだったという。

 総会を前に、活発に動くソウルとは反対に、名古屋招致団の動きの鈍さは、各国の関係者のあいだで定評となっていた。3日前の9月27日には大韓オリンピック委員会の委員長が記者団を前に「バーデンバーデンでの努力の結果、名古屋と五分五分の戦いになった」と発言。ソウルの巻き返しは名古屋の招致団も認めざるをえず、2日前の最後の票読みでは「名古屋が負けることはあるまいが接戦」とトーンダウンし、それでも最終的には「悪くても10票前後の差で名古屋が当選」との読みを固めた(『中日新聞』1981年9月29日付朝刊)。だが、現実には接戦どころか大敗に終わったのは、先述のとおりである。

「ソウルの接待攻勢に負けた」は本当か?

 すべてが決したあと、名古屋の招致団からは「ソウルのなりふり構わぬ接待攻勢に負けた」という声も上がった。しかし、敗因はそれ以上に、国際舞台での交渉能力の差ではなかったか。

【次ページ】 「ソウルの接待攻勢に負けた」は本当か?

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