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みのもんたの“幻のセリフ”「五輪、ついに名古屋に決まりましたね」40年前、なぜ名古屋はソウルに完敗したのか?《消えた名古屋五輪》

posted2021/10/06 11:02

 
みのもんたの“幻のセリフ”「五輪、ついに名古屋に決まりましたね」40年前、なぜ名古屋はソウルに完敗したのか?《消えた名古屋五輪》<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

1981年のIOC総会、開催地決定を受けて特番の備えていたみのもんた。「88年のオリンピック、ついに名古屋に決まりましたね」というセリフは幻に終わった(写真は1991年撮影)

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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BUNGEISHUNJU

 いまから40年前の1981年9月30日、西ドイツ(当時)・バーデンバーデンでのIOC(国際オリンピック委員会)総会において1988年の夏季オリンピック開催都市が韓国・ソウルに決定した。このとき、日本からも名古屋が立候補しており、開催は確実とまで言われていたが、ふたを開けてみればソウルが52票と、出席したIOC委員80人の過半数を獲得、名古屋は27票と予想外の大差をつけられて敗北を喫した。

 就任2年目のサマランチIOC会長から開票結果が発表され、名古屋の敗北が決まったのは日本時間で日付が変わろうとしていた午後11時45分。その日の深夜には、地元のテレビ各局で記念特番が予定されていた。東海テレビのスタジオでは本番直前、サマランチの発表を聞いて「いま、ソウルって言ったの?」と、番組アシスタントの曾根幹子(陸上走り幅跳びの元日本記録保持者)が司会のみのもんたと顔を見合わせた。台本ではソウルに決まった場合のことは想定されておらず、番組冒頭で、みのが「88年のオリンピック、ついに名古屋に決まりましたね」と言ったあと、2人が握手することになっており、それだけは何度も練習していたという。結局、みのは特番を完全にアドリブでこなすはめとなった(『週刊文春』1981年10月15日号)。

「ソウルには負けないという催眠術にかかっていた」

 それほどまでに名古屋の勝利は確実視されていた。前年の1980年11月末までにIOCに対して1988年の夏季五輪招致を表明していた4都市のうち、名古屋の最大のライバルと目されていたのはオーストラリアのメルボルンだった。しかし、メルボルンは財政難から1981年4月に立候補を辞退する。

 この時点で名古屋以外に残ったのはアテネ(ギリシャ)とソウルだったが、アテネはオリンピック発祥地として恒久開催を前提としておりIOCが難色を示していた。ソウルについても、韓国は南北分断国家であり、政情も不安定として、名古屋の敵ではないと見なされた。事実、1979年には朴正熙大統領が暗殺され、翌1980年には光州で学生・市民による民主化運動を軍部が弾圧するという事件も起きている。当時の社会主義国である東欧諸国は北朝鮮を支持する立場から、ソウルには投票しないとも予想されていた。

 それだけにメルボルンが辞退したときには、地元紙・中日新聞の紙面に《「名古屋五輪」濃厚に》の見出しが躍るなど(1981年2月25日付朝刊)、地元を楽観ムードが覆うことになる。だが、それが思い上がりであったことを関係者は敗北後に痛感した。名古屋市のオリンピック担当理事は《私たちはソウルには負けないという一種の催眠術にかかっていた。いつかかったかといえば、今年二月、メルボルンが下りたという情報に接した時だ》と省みている(『朝日新聞』1981年11月4日付夕刊)。

【次ページ】 直前の新聞「悪くても10票前後の差で名古屋が当選」

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