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「僕には、ゴールが必要だった」中田英寿が“パスの美学”を捨てた理由と“異質な覚悟”《伝説の「ユベントス戦で2ゴール」から23年》
posted2021/09/13 11:00
text by
金子達仁Tatsuhito Kaneko
photograph by
AFLO
かれこれ20年近い付き合いになる編集部のT君によれば、平成30年度現在のNumber編集部は、平成生まれが多数派になりつつあるのだという。
「だから、中田のペルージャでのデビューを知らない子が多いんですよ。そもそも、中田英寿って存在が当時の日本にとってどんな意味を持っていたのかも」
それはそうだろう。ベルマーレ平塚から電撃的にペルージャへの移籍を発表した中田英寿が、レナト・クーリでユベントス相手に2ゴールをたたき込んだのは、1998年9月13日だった。
この号が発売されるちょうど20年前の出来事である。
今年で29歳になる平成で一番早く生まれた世代にしても、当時わずかに9歳、小学校4年生である。
ちなみに、1966年生まれのわたしにとって、鮮明に覚えている最古のスポーツイベントは1976年6月26日に行なわれたアントニオ猪木対モハメド・アリ戦だから、平成以降に生まれた編集部員があの衝撃的なデビュー戦を記憶していないからといって、とやかく言うつもりはまったくない。
ただ、あれは日本のスポーツ史に残る1日だった。
中田は日本人の潜在意識と戦っていた
中嶋悟がいなければ、日本にF1ブームが起きることはなかった。野茂英雄の挑戦がなければ、メジャーリーグはいまも日本人にとって遠い存在だった可能性がある。
1980年代から90年代にかけては、日本のスポーツ界に様々な開拓者が出現した時代でもあった。
もちろん、中嶋以前に、野茂以前に世界へ飛び出していった日本人がいなかったわけではない。彼らの功績を否定するつもりも毛頭ない。ただ、バブル経済が到来する以前の日本人は、いまのようには海外に興味を持っていなかった。持っていたとしても、どこかで自分たちとは無縁のもの、叶わぬ夢のように感じている人が多かった。
多くの日本人が、当然のように日本人であることを世界で勝てない理由として使っていた。パワーがないから。身体能力で劣るから。農耕民族だから。
世界大会で敗北を喫するたび、マスコミは何のてらいもなく「アジアの壁」「世界の壁」なる言葉を使い、日本人の意識の中に強固なガラスの天井を構築していった。
開拓者たちは、だから、世界とだけでなく、日本人の潜在意識とも戦っていた。日本人の若者が世界に飛び出そうとするとき、誰よりも後ろ向きで、誰よりも悲観的で、誰よりも足を引っ張ろうとしたのは、他ならぬ日本人だったからである。