甲子園の風BACK NUMBER
“高校野球”が誕生したという阪急豊中駅に行ってみたら…高校ラグビーも高校サッカーも“豊中生まれ”でビックリした話
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byAFLO
posted2021/08/19 11:01
阪急宝塚線で豊中駅へ。“高校野球”発祥の跡地へ向かった
だが、このオリンピック参加は日本人にもスポーツの魅力を伝えることになったのだろう。野球だけでなく1周400mのトラック(といっても今のような楕円ではなく正方形に近かったようだが)を持ち、陸上競技もできる多目的グラウンドとして豊中運動場は設計されていた。そしてオリンピック初参加というムーブメントを受けて、豊中運動場で第1回日本オリムピック大会、日本で初めての本格的な陸上競技大会が開催されたのである(この大会の直後に陸上日本選手権につながる第1回全国陸上競技会が行われている)。
この日本オリムピック大会は豊中運動場で継続的に行われ、1915年の第2回大会では金栗四三も参加している。1916年の第3回大会ではバレーボールとバスケットボールも“日本初の公式戦”として実施された。日本で初めて100m10秒台を記録した谷三三五も真殿三三五の名で豊中運動場を走っている。
1918年の第4回日本オリムピック大会はスペイン風邪流行のさなか。1500mで日本記録を出した多久儀四郎は、スペイン風邪に感染しないように夜の外出を一切しないでこの大会に備えたのだという。中等野球が鳴尾球場に移ってしまった1917年にはフィリピン代表団を招聘しての国際競技会まで行われている。
野球、サッカー、ラグビー、陸上、そしてバレーとバスケ、国際大会まで。ここまでくると、日本の全スポーツ人、豊中に足を向けて寝られないではないか。
「スポーツ」の豊中、「歌劇と温泉」の宝塚
宝塚歌劇団の前身である宝塚少女歌劇養成会が第1回公演を行ったのは1914年と、ちょうど豊中運動場が隆盛を極めたのと同じ頃。そうして豊中運動場は宝塚歌劇と人気を二分するようになっていった。スポーツの豊中、歌劇と温泉の宝塚、といったところだ。
しかし、さしもの小林一三も、ここまで豊中運動場が賑わうとは思っていなかったのだろう。当初は常設スタンドすらなかったというし、スタンドを設けてもせいぜい数千人。さすがに手狭に過ぎて、結局1922年に収容人員2万5000人の宝塚運動場ができると入れ替わるようにして豊中運動場は廃止されてしまう。廃止されたあとはそのまま住宅地として再開発。阪急電鉄にとっては、宝塚歌劇などとまとめて終点の宝塚を一大行楽地にしてしまい、途中駅の豊中は住宅地として開発するほうがいいと判断したのかもしれない。
豊中運動場が日本スポーツのメッカとして賑わったのは、わずか9年だけである。すっかり住宅地になってしまった消えた運動場の名は、主に高校野球発祥の地として残る。だが、野球だけではなくあらゆる近代スポーツがここで行われ、電車に乗って足を運んで観戦して楽しむという今に続くスタイルもここ豊中ではじめて定着をみたといっていい。豊中は、高校野球のみならず日本のスポーツ文化発祥の地なのである。
そんな豊中には、履正社高校という甲子園の常連校がある。OBのひとりには、東京ヤクルトスワローズの山田哲人。山田がオリンピックで大活躍、優勝に貢献してMVPに輝いたというのも、豊中のスポーツ文化発祥の地としての歩みを知ると少し違った文脈で見えてくる……というのは、さすがに強引すぎるだろうか。
(写真=鼠入昌史)