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《追悼》若生正広監督(元東北高)「なあ、有…お前なら絶対に投げられる」甲子園11回の名将が高1のダルビッシュ有に見た夢
posted2021/08/14 11:04
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph by
Sankei Shimbun
若生正広監督の訃報(7月27日没、享年70歳)に接した時に、悲しさとともに不思議な安らぎを覚えたものだ……と言えば、叱られてしまうのだろうか。
それほどに、監督生活後半の十数年は、難しい病とのお付き合いが続いた苦難の時間を過ごされていたように思う。黄色じん帯骨化症……背骨の後ろにある「黄色じん帯」が骨化して徐々に大きくなり、神経を圧迫して足にマヒを起こす。指定難病だと聞いた。
発症は2007年というから、若生監督が九州国際大付属高の野球部を指揮していた頃になるのだろう。
夏の地方大会の暑い、暑い北九州市民球場。ダグアウトに通じる通路にある狭いトイレで用をたしていたら、ガラリと戸が開いて、
「なんだ、来てたの?」
語尾がヒョイと上がる東北の言葉のイントネーションは変わっていなかった。若生監督の声が聞こえたと思ったら、監督の左右に屈強なユニフォーム姿が2人。体の左右から支えていなければならない姿に、言葉を失ったことを思い出す。
そんな体調でも、全国指折りの激戦区・福岡で甲子園に春夏通じて4回、そして6勝。カンカン照りのダグアウト前列に陣取り、試合開始から1球1球、捕手へサインを送ることもあった。
「あれじゃ、キャッチャーが上手くなんねえだろっていう人もいっけどよ、チームの勝ち負けは監督が責任負ってんだかんね。任せらんねえ……と思ったら、こっちから出して、何が悪いんだ~」
やはり、ヒョイッと語尾が上がって、言葉の痛烈さが和んで聞こえたものだ。
「保険とか、どうなってるの?」
ところで、文頭から、若生監督、若生監督と呼んでいるが、私は「監督」ではない若生正広さんとお付き合いをしたことがない。なので、この先も「若生監督」と呼ばせていただきたい。