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「北海道からも日本一を目指せるんだ」2004年夏の甲子園、駒大苫小牧“まさかのV”がもたらした革新《北の指揮官たちの証言》
posted2021/08/14 11:03
text by
中村計Kei Nakamura
photograph by
KYODO
2004年夏、駒大苫小牧により深紅大旗が初めて北の大地に渡ると、地元は大喝采に包まれた。不可能と思われていた北海道勢の甲子園制覇が、何をもたらしたか。同じ北の名将たちに問う――。
15年前のあの日、北海高校監督の平川敦は、高校・大学のキャンパスに併設するグラウンドで練習していたという。
「昔のことはあんまり覚えてないけど、あの瞬間のことだけは鮮明に覚えてますね」
2004年8月22日、午後3時55分――。キャンパスや近隣の住宅から歓声が上がった。NHKで放送された全国高校野球選手権大会決勝、駒大苫小牧対済美(愛媛)の札幌地区における瞬間最高視聴率は46.2%を記録。およそ2人に1人が観ていた計算になる。
「あ、勝ったんだ……と。複雑でしたね」
その日まで北海道の野球をけん引してきたのは北海だった。1928年夏のベスト4、1963年春の準優勝と、春夏ともに道勢として最高成績を収め、道内における人気も断トツだった。その威光が、その日を境に一気にかすんでしまった。
「でも、そのときの自分と、香田先生がやってきたことを考えると、しょうがないなと思いましたね」
駒大苫小牧を率いていたのは、平川の同級生でもある香田誉士史。平川は香田を「香田先生」と言ったり、「香田」と呼んだりした。
「駒大苫小牧が勝った時は悔しくて悔しくて」
平川が北海の監督に就任したのは'98年春だ。そこから'04年秋にかけ、香田率いる駒大苫小牧とは6度対戦した。最初の3戦は3連勝し、4戦目以降は逆に3連敗だった。駒大苫小牧の隆盛期と、北海の低迷期がちょうど重なっていた。平川が話す。
「就任当初は前任の大西(昌美)先生の貯金で勝てた。でも、それが底をついたとき、どうすればいいかわからなくなった」
あの日、あの瞬間の気持ちを、もっと素直に語るのは、東海大札幌を指揮する大脇英徳だ。香田より4歳年下で、'04年春、監督に就任したばかりだった。大脇もまた、グラウンドで練習をしていたという。
「観たくなかったですから。でも、気になるので監督室のテレビを外からちらちら見ながら、勝っちゃうな、と。勝った時は悔しくて悔しくて。まさか、北海道の高校が優勝するなんて思ってなかったですから」
まさか――。それは、当時の道民を代表する心境だったに違いない。
大脇は1993年夏、東海大四(現・東海大札幌)の「4番・捕手」として甲子園に出場した。初戦となった2回戦は突破したが、3回戦は、高橋尚成(元巨人)を擁する修徳に3-4でサヨナラ負けした。
「周りの大人も、甲子園出れてよかったね、っていう感じ。優勝してこいなんて誰も言わなかった。どうせ北海道だから、って」