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帝京サッカー“11年ぶりの全国”へ…同校優勝を経験したOB監督が進める改革、1つだけ変えなかった“伝統”とは?
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2021/08/10 06:00
2015年から監督として帝京サッカー部を率いる日比威氏。四中工と同校優勝した世代ではキャプテンを務めた
日比は高校卒業後、順天堂大を経て、アビスパ福岡でJリーガーとして1シーズン、その後は当時JFLの水戸ホーリーホックと歩み、計3年のキャリアを積んだ。現役引退後はエージェント業に従事。卒業後はなかなか母校に顔を出す機会はなかったというが、14年に当時、帝京で指揮をとっていた荒谷守監督から一本の電話が入った。
「一緒に帝京で指導をしてくれないか」
日比にとって荒谷は、選手とコーチの間柄。長年、帝京のコーチを務め、1994年度には監督として選手権準優勝に導いた荒谷は、12年に10年ぶりに現場復帰していた。就任3年目となったタイミングで日比をコーチとして呼び寄せたのだった。当初は日比の希望でエージェント会社からの出向という形でコーチ職に就いたが、翌15年には「帝京の正式な教員となって、監督を引き継いでくれ」と荒谷から依頼を受けた。
「1年やってみて、帝京が変わらないとこの状況から脱することができないと思ったんです。とりあえず10年、ここで腰を据えて強い帝京を取り戻して、土台を作ってから次の指導者へとバトンを渡そうと思った」
決意を固めた日比は、エージェント会社を退職して監督としてチームを率いることになる。
選手が集まらない?
だが、日比はいきなり壁にぶち当たった。
まず、選手獲得の状況を見て愕然とした。帝京は毎年20人程度の「サッカー推薦枠」がある。だが、日比がリストアップした20人のうち、実際に帝京へ入学してきた選手はわずか5人。他の15人は帝京の誘いを断り、青森山田、前橋育英、流通経済大柏、市立船橋といった平成の高校サッカーシーンを作り上げる強豪校へ進んでいった。
「以前の帝京はこちらから誘わなくても、全国からいい選手が集まってきていた。でも、もうそれは通用しなかった。声をかけても、保護者や中学年代の指導者から『昔強かったよね』『最近勝てないよね』と言われ、何より選手が興味を示してくれない。ショックだったし、同時にそれは仕方がないことだとも思いました」
危機感を募らせた日比は、監督就任1年目から選手獲得の働きかけに奔走した。中学年代の試合が行われる会場に何度も足を運び、指導者と交流。サッカーのスタイルも、縦に早い“堅守速攻”から、ポゼッションと選手の立ち位置を重要視したグループ戦術を組み合わせ、速攻と遅攻の両方を扱えるサッカーを追求した。さらに視察だけでなく、高1の選手たちと中学生との練習試合をのマッチメイクも積極的に行った。
「選手のプレーをチェックできるし、実際に帝京のサッカーを肌で感じてもらい、『我々はこういうサッカーをするんだよ』と伝えることもできる。一石二鳥だと思った」
また、これまで全くやってこなかった“校内オリエンテーション”も自ら率先して実施。学校見学にきた中学生と一緒に校舎の施設を巡り、部室や専用の筋トレルーム、帝京グループ千住人工芝グラウンドなど、サッカー部に関連する施設も紹介した。さらには勉強カリキュラムや部活の練習時間などもイメージさせ、1週間のスケジュールもプレゼン。保護者も交えて、帝京の魅力を発信し続けた。