Jをめぐる冒険BACK NUMBER
内田篤人に“イジられた”相馬勇紀は東京五輪への情熱が筋金入り… “高校2年生での東京国体から2021年の肉体改造”までブレなかった覚悟
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byTakuya Kaneko/JMPA
posted2021/07/28 11:05
メキシコ戦では左サイドを駆け抜けた相馬勇紀。三菱養和SC→早稲田大学を経てJリーガーとなり、国内有数のアタッカーとなった
高校2年生の東京国体で受け取ったメッセージ
大きなきっかけは、高校2年生だった2013年9月から10月に開催された東京国体だった。相馬は少年の部で優勝した東京代表の一員だったが、このとき監督を務めた奥原崇氏(現FC東京育成部長)から「この中からオリンピックで活躍する選手が出てきて欲しい。ここは通過点だ」とのメッセージを受け取る。
大会直前の9月7日に2020年(のちに1年延期)の東京五輪開催が決定したばかり。「そのときからずっと心の中で、絶対に出るんだと思っていた」と相馬は言う。この言葉が啓示となり、相馬にとって東京五輪は特別なものとなったのだ。
「五輪に関しては、僕の学年(1996年度生まれ)はもともと出られない年代なんですけど、早生まれ(1997年)ということでチャンスに恵まれました。国を背負って戦うのはかっこいいし、昔からW杯やオリンピックは全国民が応援する舞台なので、自分がチームに必要なピースになって、金メダルを取るんだ、という気持ちでずっとやってきました」
もっとも、相馬が年代別の代表に選ばれる日はなかなか訪れなかった。小学生から在籍する街クラブの名門、三菱養和SCでは瞬足アタッカーとして鳴らし、高校3年時には日本クラブユース選手権で日本一に輝いたものの、プロからは声が掛からず、早稲田大学に進学した。
同世代の三好、板倉、中山らは世界と戦う中で
一方、その頃、同世代の選手たちは年代別代表として世界と戦っていた。
同じ1997年早生まれの三好康児は2013年U-17W杯と2017年U-20W杯に、同じく同級生の中山雄太、板倉滉も2017年U-20W杯に出場している。彼らは、東京五輪へと続くメインストリートを着々と歩んでいるようだった。
こうした活躍を横目に、相馬は大学サッカーでプレー面、精神面を磨いていく。
「当時、僕は代表にはまったく関係ない選手でした。だけど一番大切なのは最後の18人に選ばれることだと思って大学に進学しました。年代別の代表チームの活躍を見たりして、心が折れそうなときもあった。でも、絶対に諦めずに目標を心の中に持ち続けた結果が、今に繋がっているかなと思っている。僕が常々思っていたのは、代表に呼ばなくてはおかしいという活躍をすれば、絶対に呼ばれるということ。そういう意味で結果を出し続けたことはよかったかなと思う」