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GI競走で誘導していたあの人が…JRA職員3人が東京五輪で《総合馬術・馬場馬術》に挑む “会社員”ならではの葛藤を超えて
 

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カジリョウスケ

カジリョウスケRyosuke Kaji

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photograph byRyosuke KAJI

posted2021/07/23 11:00

GI競走で誘導していたあの人が…JRA職員3人が東京五輪で《総合馬術・馬場馬術》に挑む “会社員”ならではの葛藤を超えて<Number Web> photograph by Ryosuke KAJI

2019年に行われたテストイベントで東京のコースを走る戸本一真

北原広之49歳「馬事公苑で育ち、馬事公苑に勤めたゆかりの人」

 北原広之(きたはらひろゆき)は1971年東京都生まれの49歳。馬場馬術選手としては世界的にみてもまだまだ現役という年齢だが、会社員としてはベテラン、オリンピック選手としては今大会で日本人最年長となる。

 北原にとって馬事公苑は物心ついた時からの遊び場だった。小学校に上がる前から敷地内にある池でザリガニを獲って遊んでいた。8歳から馬事公苑の弦巻騎道スポーツ少年団に入団し高校生まで通った。大学馬術部では競技会で通った。JRAに入会後もドイツでの修業を挟みながらも勤務地として通い続けた。41年。「馬事公苑」という場所にこれほど長くゆかりのある人物はいないだろう。

北京オリンピック挑戦が「最後のチャンス」

 北原は、現在の戸本や佐渡らと同様に30代でオリンピックに挑戦する機会を得ていた。全日本3連覇を経た2008年、地域予選で北京オリンピックの団体枠を争うメンバーに入り無事に団体枠を獲得した。しかし、団体3枠のうちの4番手となり、あと一歩のところでオリンピックの出場を逃した。

「悔しかったね。自分が選手を続けていていいのかと考えた。当時は30代後半。JRA職員は会社員だから、会社のシステムとしては後進の指導にあたらなければならない年齢。『オリンピックに出るなら今回が最後のチャンス』という気持ちで挑んでいた」

 北京オリンピックから2年後の2010年、北原は世界選手権に出場する。オリンピックを目指したパートナー・ホワイミーと共に出場できたことで、オリンピックに行けなかった思いを消化させた。選手としての気持ちに区切りをつけ、自分自身を納得させた。

選手以前に「会社員」だからこその“葛藤”

 しかし、2013年に東京オリンピックの開催が決まる。心のどこかに封じ込めていた気持ちがまた動き始めた。しかし北原は選手である前に会社員だ。過去の自分がそうであったように、会社が支援し、オリンピックの経験を積ませ育てたいと思うのは30代の若手職員である。

「やっぱりオリンピックにチャレンジしたい」

 その一言は、気安く口にすることはできなかった。当時は課長という立場でもあった。若手を育てる側の立場でありながら、自らがオリンピックに挑戦することには当然のように異論が出るのもわかっていた。

「まずは誰もやって来なかった仕事をやろう。オリンピックに挑戦するまでに会社員としてやるべきことをやり、応援してもらえるような人間にならないと」

 会社員として、自分に与えられている仕事「以上」のことをやる。JRAは競馬を運営する組織。北原がこれまで世界で習得してきた馬術の技術を「競馬」に上手く還元できていない自分の仕事を変えていく必要があると感じていた。そこで、「馬作り」の観点から馬術と競馬との技術的なつながりを講習し、競馬の世界にダイレクトに貢献することを試みた。また、競走馬の乗馬への転向を促し、より高いレベルで育成するためのリトレーニング技術の向上にも取り組んだ。そして最終的には「挑戦して良い」という承諾を得た。

「JRAは競馬を通じて『夢』を提供しているが、職員にも夢を与えてくれる会社だった。理事長からも直接話をいただいた。夢を後押ししてくれる人たちがいることがとても嬉しかった」

【次ページ】 「これを経験せずに馬術人生が終わらなくてよかった」

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