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菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?
text by
urbanseaurbansea
photograph byGetty Images
posted2021/07/19 17:01
6月9日の党首討論では、「東洋の魔女」の思い出話を長尺で語った菅義偉首相。なぜ彼は同じ話を何度も繰り返すのか?
大衆ばかりでなく、文学者たちも熱狂した。『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』(講談社文芸文庫・2014年)で彼らの観戦記をあれこれと読むことが出来るのだが、「東洋の魔女」に関するものでいえば、三島由紀夫はその勝利の姿に生まれて初めてスポーツに涙したと記し、石原慎太郎はもし敗れていたなら「第二次大戦での敗戦に次ぐくらいの、精神的打撃と成り得たかも知れない」と、石原っぽいことを書いている。
『悪女について』などで名を残す作家・有吉佐和子によるものもある。
有吉は、選手たちが床に汗が落ちるとすべらないように布ですぐにふく姿に感銘を受け、次のように記す。「すぐに雑きんがけよろしく布で床をぬぐうのだ。それはなかなか頼もしい光景だった。この人たちが結婚したらさぞやいい奥さんになることだろうと私はほほえましく思いながら、拍手を送っていた」。
また有吉は選手たちに「これからの人生の幸福を私はお祈りしています」とも綴っている。アスリートから「感動をもらう」のは今世紀に入ってのことだが、東京五輪(1964年)当時、選手たちの今後の幸せを祈っていたのだ。
これは奇想天外なスポーツ観戦記に思えるが、「良妻賢母」なる言葉が女性の理想像であり、「主婦」が憧れだった時代である。有吉は「これだけの女性たちを育てあげた」大松監督への「ありがとう」の言葉でくだんの観戦記を締めるのだった。
あるいは『五番町夕霧楼』の水上勉は、世界一といえども「だれもが貧弱なからだ」をしていて、「そこいらの家からユニホームをひっかけて出てきて、ばんそうこうだらけの指をした娘さんの集まり」で、「平凡な日本の女を代表していた」と評している。
「東洋の魔女」と呼ばれ、異次元の活躍ぶりで世界を席巻し、金メダルまで獲得した選手たち。しかしコートにいたのは、フィジカルエリートのアスリートたちではなかった。そこにいたのは、自分たちと等身大の日本人であったのだ。
こうした「東洋の魔女」の活躍が菅の心に残っているというのは、真実だろう。なにしろ視聴率90%以上、三島由紀夫までもが涙したのである。
菅青年は「東洋の魔女」に何を見たのか?
また菅と「東洋の魔女」は、本来、相性もいいはずだ。農村から出てきた青年が政治家になる物語と、地方から出てきた女工たちが世界一になる物語であるのだから。思い返せば菅は、農家・集団就職・法政の夜間(二部)といった“苦労人神話”を背景に、世襲議員だらけの永田町にあって、独自性を得ていた。しかしこうした神話もすっかり崩れてしまい(実際はモラトリアムの上京で、大学は一部であった)、今では縁故主義がはびこる特権階級の住人と見なされている。
農村から出てきたのは事実だが、苦労人の物語という背景を失った菅と「東洋の魔女」の結びつきは、余計に見えなくなったのだ。それにも関わらず、菅は「東洋の魔女」の話を繰り返す。
「東洋の魔女」のルーツである繊維にちなんでいえば、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(松本隆作詞・筒美京平作曲・1975年)である。地方から都会に出た男は、やがて都会の絵の具に染まっていき、故郷に置いていった恋人のことを忘れ去っていく。そんな歌だ。橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書・2020年)によると、この曲が出た当時、太田が出演するラジオ番組には団塊世代の若者たちから「僕の青春そのものだ」などといってリクエストが寄せられたという。
菅もその団塊世代のひとりだ。菅が語る「東洋の魔女」の思い出が、「コロナに打ち勝った証」「安全安心」と同様に空疎なものになってしまうのは、菅が都会、いや永田町の絵の具に染まり切ったからであろうか。