オリンピックPRESSBACK NUMBER
菅義偉首相(72)がよく話に出す「東洋の魔女」とは何だったのか…農村育ち宰相の“苦労人神話”と“金メダル実業団チーム”って関係ある?
text by
urbanseaurbansea
photograph byGetty Images
posted2021/07/19 17:01
6月9日の党首討論では、「東洋の魔女」の思い出話を長尺で語った菅義偉首相。なぜ彼は同じ話を何度も繰り返すのか?
このチームの社会学的な背景を論じたものに、新雅史『「東洋の魔女」論』(イースト新書・2013年)がある。その背景とは次のようなものだ。
もともと女子工員の多い繊維会社ではレクリエーションとしてバレーボールが盛んで、寮対抗、事業所対抗、部署対抗の大会が行われていた(そういえば一昔前の映画やドラマ、アニメでは、昼休みにビルの屋上でバレーボールに興じる会社員の姿が映し出されていたものだ)。
そうした職場のチームのなかには対外試合に出るものもあり、たとえばある年の全日本総合女子選手権では、出場50チームのうち、鐘紡だけで6チーム、日紡も5チームが出場していたほどであった。こうなると同じ繊維業界のチーム同士の対戦はたいへんな盛り上がりになったという。そんななか、レクリエーションの延長ではなく、勝つことを目的にしたチームが生まれる。それが日紡貝塚の女子バレーのチームである。そして会社のPRも兼ねて海外遠征までし始め、ソ連のナショナルチームを倒すまでになるのであった。
話のスケールがどんどん大きくなっていく様もまた、漫画のようでもあり、フィクション超えしたものでもある。
視聴率90%越えの激戦に秋田の菅少年も熱狂?
東京五輪(1964年)では、女子バレー日本代表のほぼ全員(12人中10人)が日紡貝塚チームの選手で、監督も大松博文が務めた。そして5戦5勝の全勝優勝(しかもポーランド戦で1セット落としただけの強さ)で金メダルを獲得する。
この大会では、団体球技はバスケットボール、サッカー、バレーボール、ホッケー、水球の5競技が行われたのだが、女子種目があるのはバレーボールのみである。というのも、女子が正式種目に採用されたのは東京五輪(1964年)からで、「東洋の魔女」の活躍から金メダルが狙えると見込んだ日本の働きかけによるものであった。
そんな女子バレーボールの最終戦となるソ連戦が、閉会式前日の夜に組まれたあたりに、この大会が「東洋の魔女」のための大会であったことがうかがえる。おまけにこの日、日本のお家芸であるはずの柔道で、アントン・ヘーシンクに神永昭夫が敗れている。そんななかで迎えたソ連戦を、「東洋の魔女」はセットカウント3-0で圧勝したのだ。
このときの熱狂はいかほどのものであったかといえば、視聴率は実に90%(NHKと民放を足した数字)を上回ったと見られている(『オリンピック・スタディーズ』せりか書房・2004年所収の新雅史の小論より)。秋田の高校生であった菅少年がテレビの前で熱狂するひとりであったのは十分想像がつく話だ。