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小笠原道大らファイターズ戦士たちに刻まれる大島康徳の姿…敗色濃厚でも汗びっしょりで代打の準備「とにかく熱い人だったから」
posted2021/07/10 06:00
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph by
KYODO
紡いでいく言葉の細部から、故人の体温が伝わってくるようだった。語り部たちが、故人との記憶を紐解いていった。ほとばしるような生前の息遣いが聞こえてくるようで、その存在を間接的に共有できた。それほど深く、鮮明に心に刻まれている先人だったのである。
北海道日本ハムファイターズは7月5日、訃報に接した。
東京ドームを本拠地とした日本ハムファイターズ時代に監督も務めた大島康徳氏が6月30日に逝去されていたことが、公表された。それぞれの中にはエネルギッシュで、ポジティブで、生命力にあふれた大島氏が、今も生きているのである。
野球人生の晩年を、ファイターズで過ごした。1988年、中日ドラゴンズからトレードで入団した。当時37歳。既に球界を代表する打者の1人だった。43歳の1994年シーズン限りで引退するまで、パ・リーグで下位に低迷していたチームへ刺激を与え、ベテランとして改革のために注力し続けたそうである。
当時ともにプレーし、現在は査定担当を務める五十嵐信一氏は回想する。守備は一塁が主戦場で、同じ右打者で代打の切り札も担った。その役回りは大島氏と、重なっていたという。ライバルの先輩だったのである。五十嵐氏が頭角を現せば、自身の出場機会が脅かされる可能性がある。それにも関わらず、大島氏は惜しげもなく打席での思考、打撃の技術や理論を伝授してくれたという。
「優しかったよね。『小出しにな』とか言いながらだけど、代打の極意とかいろいろアドバイスしてもらった。『追い込まれてからすべての球種に対応しようとしても打てない。相手の決め球に絞るか、そうしないか。どちらかにしないと』とか、いろいろ教えてもらった」