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小笠原道大らファイターズ戦士たちに刻まれる大島康徳の姿…敗色濃厚でも汗びっしょりで代打の準備「とにかく熱い人だったから」 

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高山通史

高山通史Michifumi Takayama

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posted2021/07/10 06:00

小笠原道大らファイターズ戦士たちに刻まれる大島康徳の姿…敗色濃厚でも汗びっしょりで代打の準備「とにかく熱い人だったから」<Number Web> photograph by KYODO

監督就任後、初の秋季キャンプで選手たちを見守る大島康徳監督(1999年11月5日)

 94年、大島氏の引退試合の一コマもはっきりと覚えている。まだ試合中盤、ベンチを覗きにいくと、既に野手たちの涙腺が決壊していたという。岩本氏は「5回とか6回くらいじゃなかったかな。試合中なのに、みんな泣いているんですから。大島さんと今日で野球をできなくなるって、後輩たちが。あれは、感動しました」。

 岩本氏は、しみじみと言う。

「喜怒哀楽は豊かだったけれど、落ち込んでいるところは見たことがない。それは、みんなと話していたんですよ。そして最後の1アウトまで、あきらめなかった。病気と闘っている時も、そうだった。ホンマ、カッコ良かった」

愛情がないと叱ることはできない

 監督としての大島氏のイズムは、継承されていく。

 選手として仕え、ファイターズの指導者になった1人が、上田佳範外野守備走塁コーチ。「一番、しかられた選手じゃないかな。褒めてもらった記憶がない」と自認しているが、そこには深い愛情を感じていたという。上田コーチを主力へと一本立ちさせようと、とにかく厳しかったという。試合中に走塁ミスなどでベンチへと戻れば「バカヤロー!ヨシノリ!」と面罵されるのは、日常茶飯事だったという。

 試合前の打撃練習ではケージの後ろに大島氏が陣取り「昨日、あの場面でお前が打っていたら勝てた試合だった」など執拗に、口撃された。見かねたコーチがフォローしてくれることもあったというが、その言動に潜む思いも理解していた。上田コーチは、同じ指導者になって理解できたことがある。

「しかる時は、しかる。それは愛情がないとできないことだと、今になって分かる。この立場になって、その姿は参考にしている」

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