ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
小笠原道大らファイターズ戦士たちに刻まれる大島康徳の姿…敗色濃厚でも汗びっしょりで代打の準備「とにかく熱い人だったから」
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKYODO
posted2021/07/10 06:00
監督就任後、初の秋季キャンプで選手たちを見守る大島康徳監督(1999年11月5日)
大島氏は2000年から3年間、監督を務めた。小笠原道大ヘッドコーチ兼打撃コーチも、主力選手として同じ時代を生きた1人である。
激情家で、勝敗に強く執着する指揮官としての姿は印象深い。「抗議か、何かだったかなぁ。大島さんがベンチから飛び出した瞬間に、肉離れしたことがあって。足を引きずっていたのは、記憶にあるなぁ」と笑い、懐かしむ。
監督を退任後も、連絡を取って助言を請うなどサポートをしてもらってきた。家族ぐるみでも交流があり、かけがえのない恩師の1人である。がんを患ったことをオープンにして、病と闘う姿を目に焼き付けてきた。小笠原コーチがファイターズに復帰した際には「俺も、いつでも現場に戻る準備できているから」などと言葉を交わし、旧交を温めていた。
小笠原コーチは感服し、悼んだ。
「心の強さがある。最期まで、変わらなかった」
死去の報から一夜明けた7月6日、旭川スタルヒン球場。埼玉西武ライオンズ戦は半旗、黙祷で故人を偲び、喪章をつけてプレーした。
9回2死から、高濱祐仁選手がサヨナラ打を放った。不沈の埼玉西武ライオンズの平良海馬投手からドラマを生んだ。
あと1アウト、最後まで諦めずに白星を追った。
大島氏が主な持ち場とした一塁で出場した、同じ九州男児で右打者が主役を張った。
遺志が宿った――。そう信じてしまう一夜だったのである。