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辰吉丈一郎が“5年ぶり試合”で無敗王者を眠らせた&放火騒ぎで新日本プロレスは3年間出禁「城ホールと横アリの伝説」 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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posted2021/06/22 17:01

辰吉丈一郎が“5年ぶり試合”で無敗王者を眠らせた&放火騒ぎで新日本プロレスは3年間出禁「城ホールと横アリの伝説」<Number Web> photograph by KYODO

1997年11月22日、大阪城ホールでのWBC世界バンタム級タイトルマッチ。左のボディーブローでシリモンコンを攻める辰吉丈一郎

 現在、総合格闘技イベント「RIZIN」を運営する、ドリームファクトリーワールドワイド代表の榊原信行は、かつて存在した「PRIDE」の旗揚げ興行への協力を石井和義(K‐1創始者)に依頼した際「東京ドームでは会場が大きすぎる。横浜アリーナくらいが適正なサイズ」と石井にアドバイスされたという(『2000年の桜庭和志』文藝春秋/柳澤健著より)。90年代を代表するプロモーター、石井和義の横アリ観、及びその評価の程が伝わる興味深い挿話だが、その「PRIDE」も初お目見えの「PRIDE.2」(1998/3/15)以降、2007年の消滅まで合計10度の興行を行っている。

 当初は馴染みが薄かったのがプロボクシング興行である。初お目見えは「WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ・王者ダニエル・サラゴサ対挑戦者辰吉丈一郎」(1996/3/3)でオープンから7年も待たねばならない。その後は「WBC世界バンタム級タイトルマッチ・王者辰吉丈一郎対挑戦者ホセ・ラファエル・ソーサ」(1998/3/8)、「WBC世界バンタム級タイトルマッチ・王者辰吉丈一郎対挑戦者ポーリー・アヤラ」(1998/8/23)と、集客力の高い辰吉絡みのタイトルマッチが盛んに行われた。

 2000年代に入ると「WBA世界ライト級タイトルマッチ・畑山隆則対坂本博之」(2000/10/11)の名勝負で幕を開ける。しかし、畑山隆則のホームグラウンドになることはなく、最も多く登場したのはWBC世界スーパーフライ級王者の徳山昌守である。通算9度の防衛戦のうち「ジェリー・ペニャロサ戦」(2001/9/24)、「柳光和博戦」(2002/3/23)、「川嶋勝重戦」(2003/6/23)と3度の王座防衛を横浜アリーナで成し遂げた。しかし、2004/6/28に川嶋勝重に1RKO負けを喫すると、きっぱり別れを告げている。

「大阪城ホール」初のスポーツイベントは何か?

「東の横アリ・西の城ホール」と並び称されるのが西日本を代表する大会場、大阪城ホールである。

 正式名称は大阪城国際文化スポーツホール。オープンは1983/10/1でこけら落としは、シンセサイザー奏者の喜多郎のコンサート(1983/10/9)というのがいかにも80年代らしい。

 では、大阪城ホール初のスポーツイベントは何か。筆者は長年「国際室内陸上」(国際室内陸上競技大会・1984/1/16)だろうと思っていた。カール・ルイス、妹のキャロル・ルイス、ウィリー・バンクス、ルドミラ・コンドラテワら世界のトップ選手が集結。ニュースのスポーツコーナーは、連日にわたってこの陸上の国際大会を報じ、その上、ロス五輪を夏に控えたスーパースターのカール・ルイスが「男子60m」でポール・ナランコット(豪)に敗れるという大波乱を、当時小6だった筆者は「大阪城ホールで行われた初のビッグイベント」という枕詞とともに、ぼんやりとではあるが記憶していた。

【次ページ】 日本初のIBF王者「国内のプロライセンスを剥奪する」

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