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辰吉丈一郎が“5年ぶり試合”で無敗王者を眠らせた&放火騒ぎで新日本プロレスは3年間出禁「城ホールと横アリの伝説」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/06/22 17:01
1997年11月22日、大阪城ホールでのWBC世界バンタム級タイトルマッチ。左のボディーブローでシリモンコンを攻める辰吉丈一郎
実際はというと、それより1カ月前に全米バスケットボール「ディポール大対アラバマ大」(1983/12/15)が行われており「国際室内陸上」が初お目見えではなかった。とはいえこの全米バスケが初お目見えかと言うとそうでもない。報道機関がほとんど報じないプロボクシングの世界タイトルマッチが5日前に行われていた。
日本初のIBF王者「国内のプロライセンスを剥奪する」
JBC(日本ボクシングコミッション)非公認のプロボクシング団体であるIBF日本(現在は消滅)が主催する「IBF世界ライトフライ級タイトルマッチ・王者トディ・ボーイ・ペニャロサ対新垣諭」「IBFスーパーフライ級タイトルマッチ・王者全周都対春日井健」の二大世界タイトルマッチである。
WBA(世界ボクシング協会)から独立して設立されたIBF(国際ボクシング連盟)を当時のJBCは認めていなかった。WBA世界ランカーの新垣諭を擁する奈良池田ジムは「もしIBFのタイトルマッチに出場したら、日本国内のプロライセンスを剥奪する」というJBCの勧告を振り切り「IBF日本」を設立する。そこで開催したビッグマッチが、結果として大阪城ホール初のスポーツイベントとなったのである。結果を小さく載せた読売新聞以外は、朝日新聞が「新垣のJBCのプロライセンスはく奪」を強調した記事を書き、それ以外の一般紙は結果すら報じなかった。
ちなみに、揃ってTKO負けを喫した二人の日本人選手だが、程なく3階級上げて再起を図った新垣諭は、翌年の4月15日、エルマー・マガラーノ(フィリピン)との王座決定戦を制し、日本人として初めてIBF世界バンタム級王座を獲得。その後初防衛にも成功している。時代は変わって、JBCがIBFを承認した今、国内で頻繁に世界戦を行っている。新垣の偉業はもっと語り継がれるべきだろう。
“浪速のジョー”と5年ぶりの大阪城ホール
大阪城ホールとボクシング興行と言うと、80年代の名チャンプ、渡辺二郎の存在が思い出される。初戦は「セルソ・チャベス戦」(1984/3/15)。それ以降は実質上の「WBA・WBC王座統一戦」となった「パヤオ・プーンタラット戦」(1984/7/5)、「勝間和雄戦」(1985/9/17)と3度も世界戦を戦い、いずれも勝利を収めた。
同じく大阪出身の世界王者、井岡弘樹もWBC世界ミニマム級王座の初防衛戦「李敬淵戦」(1988/1/31)の舞台が大阪城ホールだった。12RTKO勝ちを収めた井岡は、病床にあった師エディ・タウンゼントに初防衛を捧げている。その勝利を見届けるかのように、名伯楽はこの翌日息を引き取った。
“浪速のジョー”こと辰吉丈一郎にとって、大阪城ホールにおける軌跡は、なんともドラマティックなものである。