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【幻の東京五輪】中国が抗議「戦争を仕掛ける日本に五輪開催地の価値はない」、IOC会長は何と答えた?
posted2021/06/16 11:04
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
KYODO
「(東京五輪で)2億円の観光収入があがる」
1940年大会で消極的だったのは政府だけでなく、じつは日本のアマチュアスポーツを統轄する体協もまた、東京市がオリンピック招致を提唱した当初は日本での開催は時期尚早として反対していた。開催が決まってからも競技場建設地の選定など、ことあるごとに東京市と体協は対立し、確執は深まるばかりだった。組織委員会内でも、体協は開催準備が官僚や東京市の職員に牛耳られるのを嫌悪していると見なされ、それは「競技人のみの世界観から来るスポーツ・セクト主義に支配されているため」と批判されたりもした(『改造』1937年5月号)。
オリンピック返上の主因となった競技場の整備の遅れも、元はといえば、「紀元2600年記念」として開催したいとの意欲が先行するあまり、日本国内で各競技がどれだけ普及しているかなどスポーツ界の状況が考慮されなかったことに端を発するように思われてならない。
先にあげた体協に対する「スポーツ・セクト主義に支配されている」との批判は、東京日日新聞(現・毎日新聞)出身のスポーツ評論家・北沢清の「オリンピック経済学」という記事に出てくる。同記事ではその題名が示すとおり、オリンピック開催による経済効果が分析されていた。そこには、《東京オリンピックを機会に、日本に落ちる金を予想して、観光局では少くとも7、8万人以上の外客誘致を計画しているが、計画の通りに実現すれば、オリンピックのために2億円前後の観光収入があがることになる》との試算も示されていた(原文は旧仮名遣い・旧字体・漢数字)。観光局とは、1930年に鉄道省(現・国土交通省)に設置された国際観光局を指す。1940年の東京五輪は、昭和初期の金融恐慌で打撃を受けた日本経済の再建のため、外国人観光客の誘致による外貨獲得の切り札とも目されていたのだ。これなど、2020年大会を機にインバウンド需要が期待されていたことと共通しよう。
大会返上を迫った副島は「裏切り者」
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気になるのは、1940年大会の開催が日中戦争で危ぶまれるなか、一般の人々はオリンピックをどう捉えていたのかということだ。