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【幻の東京五輪】中国が抗議「戦争を仕掛ける日本に五輪開催地の価値はない」、IOC会長は何と答えた?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/06/16 11:04
1940年東京五輪の代替大会のひとつとして開催された第11回明治神宮国民体育大会のポスター。戦時色が色濃い
この時代にはまだ世論調査というものはなく、その点はなかなか把握しにくい。そのなかにあって、戦前の文藝春秋社発行の『話』という雑誌では、東京五輪は予定どおり開催されるべきかどうか読者にアンケートを行っている(1937年11月号)。戦争がまだ始まったばかりで、早期に終結するとの楽観的なムードもあったせいか、アンケート結果には思いのほか開催に対し賛成意見が目立つ。ただ、その大半が《国民の精神動員に、千の講演会よりも明治神宮に高く上ったメインポールの一本の日章旗の感激の方が遥かに有意義だ》(滋賀・官吏)というような国威発揚に期待する声であった。
こうしたスポーツの精神からはかけ離れた目的が先行する状況を誰よりも憂えたのが、IOC委員の副島道正だった。招致段階においてイタリアのムッソリーニからローマの立候補辞退を引き出すなど東京五輪の実現に尽力した副島が、最終的に自らの手で政府に返上を迫らざるをえなかったのは、オリンピックの理念を遵守しなければならないという思いからであった。
大会返上を決議した組織委員会の緊急総会では、副島の両隣には誰も座る者がいなかったという。委員たちはみな、彼を裏切者とみなしたのだ。このあと、副島はIOC委員を辞任する意思を示し、会長のラトゥールに電報を送った。だが、先方からは「あなたは自国およびIOCにとって正しいことをしたのに、なぜ辞任しなければならないのか」と、留任を促す書簡が返ってくる。IOC執行委員会でも、副島の行動は「オリンピック理念ならびに自国に対するすばらしい行動」と評され、辞任は認められなかった。
中国のIOC委員「日本に開催地の価値はない」
戦争に突き進んでいた日本にあって、オリンピックの理念を深く理解し、それを守るため自らの立場も顧みず行動した人物がいたことは特筆されるべきだろう。もっとも、だからといってオリンピックが「純粋なスポーツ」の大会なのかというと、けっしてそうは言い切れない。
社会主義者の山川均は、1940年五輪の東京開催の決定を受けて発表した「国際スポーツの明朗と不明朗」と題する論考のなかで、スポーツは《人間精力の純粋な浪費であり、その追求する目的が何にもならぬという意味で完全に無価値なところ》にこそ価値があるとし、それゆえに《人生にしろ社会にしろ天下国家にしろ、それらのものにとって如何に重要であり有益であり有意義であろうとも、いやしくもそういうものの考慮がひとたび入ってくると、スポーツはその瞬間から単なるスポーツではなくなってしまう。(中略)そういう意図や考慮や意義――他の見地からはそれがいかに高貴なものであろうとも――が入ってきた瞬間に、スポーツの純粋性または純真性は失われたことになる》と喝破した(『文藝春秋』1936年9月号)。