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「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph byKYODO

posted2021/06/16 11:03

「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体<Number Web> photograph by KYODO

副島道正伯爵。1871年生まれ。東京五輪を招致すべく1934年からIOC委員を務めた

 1940年大会に向けて東京市の職員として準備にあたっていた磯村英一は後年、「(競技場建設のため)鉄材使用について政府の承認を得られなかったことが、大会返上の決定的要因だったのではないか」と語ったという。だとすれば、日中戦争が起こる前にも競技場の場所や規模が確定し、建設資材の手配の目途もついて早々に着工されていたのなら、オリンピックは返上せずに済んだかもしれない。

 もっとも、仮にオリンピックができたとして、完全な形での開催は難しかっただろう。それというのも、開催の1年前の1939年9月にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発していたからだ。このため、東京返上後、1940年大会の代替開催地に決まっていたヘルシンキもオリンピックを返上せざるを得なかった。ヨーロッパ全土が戦火に包まれた状況では、日本と同盟を結ぼうとしていたドイツとイタリアの参加も望みは薄かったはずだ。

 他方、アメリカは1940年の時点ではまだ参戦していない。国内では東京五輪のボイコットを呼びかける運動が高まっていたとはいえ、当時の米国オリンピック委員会の会長ブランデージ(1964年の東京五輪開催時のIOC会長)は、オリンピックと開催国の政策はあくまで別だという考えを持っていたので、選手団を送った可能性はあり得る。ただ、幻の東京五輪の会期中にあたる1940年9月23日には、日本は北部仏印(フランス領インドシナ)を占領し、さらにオランダ領インドネシア(蘭印)を狙うにいたった。同月27日には日独伊三国同盟が締結される。こうした日本の行動はアメリカには脅威と映り、経済制裁に踏み切らせ、結果的に翌年12月の日米開戦の布石となった。もし、東京五輪が開催され、米国が参加していたのなら、日米関係をもう少しよい方向に導くことができたのだろうか。

東京五輪の代替大会に参加した4カ国

 欧米諸国の参加が見込みにくい状況にあって、むしろ日本が積極的に参加を呼びかけたのはアジア諸国であったはずだ。アジア初のオリンピックを謳った以上、そうなるのは自然だし、また1940年に東京五輪の代替大会という位置づけで開催された東亜競技大会の内容からしてもはっきりと想像できる。東京と関西で開催されたこの大会には、海外から満洲国・中国(汪兆銘政権)・フィリピン・ハワイが参加した。満州国と汪兆銘政権が事実上の日本の傀儡だったことからもあきらかなように、この大会は「大東亜建設」のスローガンのもと、日本を「アジアの盟主」と位置づけようという政府の意向を色濃く反映していた。

 当時の政府はまた、戦時下にあって国民の体力向上のため体育を奨励していたが、東亜競技大会には、そのアピールのため、日本のスポーツの国際的な優越性を示そうという意図もあった。代替大会がこのような性格のものであった以上、もし東京五輪が開催されていたのなら、どんな様相を呈したかは推して知るべしだろう。おそらく世界に向けて格好のプロパガンダの場になったに違いない。

天皇が開会宣言をすることは「許されない」

 しかし幸か不幸か、当時の政府は東京五輪の開催にずっと消極的であった。これは2020年大会の開催に、政府が招致段階から深く関与し、感染症の拡大が懸念されるなかでもなお開催に執着しているのとは対照的である。

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