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「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph byKYODO

posted2021/06/16 11:03

「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体<Number Web> photograph by KYODO

副島道正伯爵。1871年生まれ。東京五輪を招致すべく1934年からIOC委員を務めた

 この段階において内閣でオリンピック開催に賛成していたのは、事実上、荒木だけであった。ただ、政府は中止に傾きながらも、はっきりと反対を唱えることもなかった。鷺田は厚生大臣の木戸幸一とも話をしたが、「オリンピックといえども、国家の定めた線を外れることはできない」と妙に奥歯に物の挟まったような言い方であったという。

そして2年前の夏に決定された「オリンピック中止」

 それがまもなくして返上が決まったのは、IOC委員の副島道正の動きによるところが大きい。彼は組織委員会や東京市の誰とも相談せず、秘密裡に働きかけた。まず、首相の近衛文麿を昼食会に招くと、政府が東京五輪の開催に不賛成であるならば、大会中止を命じるべきだと決断を求めると、その後、主要な閣僚たちとも協議を重ねた。閣僚の大部分は「オリンピックは返上したほうがいい」との答えであった。

 閣僚たちの反応を見て、副島はオリンピック開催に見切りをつけると、政府に対して大会中止を組織委員会に指示するよう要請する。中止するか否かは組織委員会の権限事項だが、東京市はなおも開催に熱意を燃やし、組織委員会が大会返上でまとまる可能性は低いと推測された。しかし、このままずるずると迷った末に、直前に返上するということになれば、別の場所で代替開催もできなくなり、日本はオリンピック史上に拭うことのできない汚点を残してしまう。副島はそう考えて、非常手段に訴えたのだった。すでにオリンピックを所管する厚生省(この年1月に設置)も大会中止の方向で具体的な検討に入っていた。

 こうして1938年7月14日、厚生省はオリンピック中止を決定する。厚生大臣の木戸幸一はその発表にあたり、「国を挙げて戦時体制に備えているときオリンピックだけをやることは不可能だ」と述べた。

 木戸が記者会見で中止を発表すると、すぐに国内外に報じられた。事前に通知されていなかった組織委員会には寝耳に水であった。翌15日、オリンピックの返上は閣議で正式に決定され、組織委員会の副会長・下村宏(体協会長)と事務総長・永井松三、東京市長の小橋一太が厚生次官より中止を勧告された。国策のためとなれば、東京市も組織委員会も受け入れざるをえなかった。16日、組織委員会は緊急総会で返上を全会一致で決議し、IOCに打電する。こうして1940年の東京五輪は幻に終わったのだった。

アメリカは参加していたかもしれない

 1940年大会では、戦争のため物資統制が厳しくなるなかで競技場建設が改めて争点となったが、限られた社会資源をオリンピック関連に割くべきか否かという問題は、今回のオリンピックで、新型コロナウイルスのワクチン接種を選手に対し優先的に行うことや、多くの医療従事者を大会のため募集することが批判されている現状にも通じるのではないだろうか。

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