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「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体

posted2021/06/16 11:03

 
「ギリギリだと日本は五輪史上に汚点を残してしまう…」“幻の東京五輪”、2年前の夏に中止を決断させた男の正体<Number Web> photograph by KYODO

副島道正伯爵。1871年生まれ。東京五輪を招致すべく1934年からIOC委員を務めた

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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KYODO

1940年の“幻の東京五輪”。開催の2年前に返上された、そのウラ側をあらためて検証する。(全3回の2回目/#1#3へ)

 1940年の東京五輪の主要競技場は、一旦は明治神宮外苑に建設が決まったものの、管轄の内務省神社局からいくつもの制約を受け、規模を大幅に縮小せざるをえず、計画は暗礁に乗り上げる。そこで東京市は、以前より候補地にあがっていた世田谷の駒沢ゴルフ場にメインスタジアムを移し、水泳競技場と選手村と併せて建設する方針に転じる。メインスタジアムの工費は676万円と、外苑競技場案の453万円を上回ったが、収容人数は常設・仮設スタンドを合わせて11万人と世界最大級となる計画であった。

 だが、これが決まったのは1938年4月と、日中戦争が長期化の兆しを見せていた時期である。すでにあらゆる物資が軍需優先のため統制の対象となり、前年の10月には「鉄鋼工作物築造許可規則」が出され、軍事施設以外の建設に50トン以上の鉄鋼を使うことが認められなくなっていた。そのなかで1000トンもの鉄材を要する大競技場の着工が容認されるわけはなかった。東京市はメインスタジアムの一部を木造にするなど、できるだけ鉄材の使用量を切りつめた計画に変更した上で国側と折衝にあたったが、企画院(戦時下にあって統制経済を推進した内閣直属の機関)は首を縦に振らなかった。

山本五十六「競技場の鉄鋼で、駆逐艦2隻は建造できる」

 組織委員会で宣伝を担当していたジャーナリストの鷺田成男も、政府が大会中止に傾きつつあるとささやかれるなか、真相を確かめるべく要人たちと会うたび、やはり競技場が引き合いに出された。海軍次官の山本五十六は、「競技場新設に要する鉄鋼の量はさほどではないが、それでも駆逐艦2隻は建造できる」と言って笑ったという。オリンピックに否定的ながら、山本の砕けた態度に鷺田は好感を持った。

 あるいは第一次近衛内閣の改造(1938年5月)で文部大臣に就任した陸軍大将・荒木貞夫は、オリンピックは行うべきだと肯定してくれたが、唯一、競技場建設には疑念を示した。荒木の言い分は「戦争資材をどんどん使ってオリンピックの準備をせねばならぬということになると、政府にしても、軍としても、オリンピック中止に傾くのは当然だ」「戦争が終わったなら、どんな立派な競技場を造ってもよい。だが戦いの終わらないうちは現在の設備のままでやるという決心だ。といっても最小限の補充は差し支えないだろう」というものであった。

“開催賛成派”は内閣に1人だけだった

 鷺田は、既存の施設での大会開催なら荒木の支持が見込めると判断して、組織委員会事務局に戻ると、事務総長の永井松三や競技部長の郷隆にその旨を報告した。しかし、郷には「そんなことを相談しても、東京市は競技場の新設を撤回しないだろう」と言われ、結局、この件が組織委員会で共有されることはなかった。

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