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伝説の阪神大賞典「ナリタブライアンvsマヤノトップガン」から25年 武豊が当時語っていた“想定外”とは
posted2021/03/21 11:03
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph by
Sankei Shimbun
長く、壮絶な叩き合いのすえ、2頭が馬体を併せてゴールした。
内か、外か。どちらが勝者なのか、すぐにはわからなかった。が、誰の目にも明らかなことがひとつあった。
それは、この一戦は間違いなく競馬史に残る名勝負である――ということだった。
武豊・ナリタブライアンと田原成貴・マヤノトップガンが激突した第44回阪神大賞典は、そういうレースだった。
1996年3月9日。ちょうど四半世紀前のことであった。
ナリタブライアンの再始動戦となった阪神大賞典
その2年前の1994年、ナリタブライアンは圧倒的な強さで史上5頭目のクラシック三冠馬となり、有馬記念も制した。三冠で2着馬につけた着差の合計は15馬身半。歴代の三冠馬で最大である。
しかし、翌1995年の春、右股関節炎のため休養。天皇賞・秋で復帰するも、本調子にはほど遠く12着に終わった。次走、武を鞍上に迎えたジャパンカップは6着、有馬記念は4着と精彩を欠いた。
「勤続疲労が出てしまいましたね。調子が落ちているとき豊君に騎乗依頼をしてしまい、申し訳ないことをしました」
管理した大久保正陽調教師(当時)はそう話していた。武はしかし、この依頼を非常に喜んでおり、「ずっと憧れていたアイドルにやっと会えたような感じ」と表現していた。
そして、1996年の始動戦が、阪神大賞典となった。
一方、マヤノトップガンは、1995年の菊花賞をレコード勝ちし、GI初制覇を遂げた。次走の有馬記念でも持ち前の先行力を発揮し、武豊のナリタブライアンを4着に下して優勝。同年の年度代表馬に選出された。ゴール後に田原が馬上で十字を切って投げキッスをするという、ランフランコ・デットーリばりのパフォーマンスでも注目されていた。
そして翌1996年、阪神大賞典で、ナリタブライアンと再度戦うことになった。
どちらもブライアンズタイムの産駒で、かたや1994年、かたや1995年の年度代表馬。鞍上は、ほとんどすべての記録を塗り替えていた「天才」武豊と、その武が子供のころに憧れていた「元祖天才」田原成貴。2人とも170cmほどと、騎手界ではかなりの長身だった。
第44回阪神大賞典の出走馬は10頭。1番人気はマヤノトップガンで単勝2.0倍、僅差の2番人気はナリタブライアンで、単勝2.1倍だった。