オリンピックPRESSBACK NUMBER

「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか? 

text by

近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

PROFILE

photograph byJMPA

posted2021/02/28 17:02

「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?<Number Web> photograph by JMPA

1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場した小谷実可子(1988年撮影)

 椙山は前畑の才能を見出し、自分の学校に入れて、支援し続けてくれた恩人だけに、その意向を無視するわけにはいかなかった。椙山には「おまえには日本の名誉を世界に知らしめる義務がある」とも言われた(兵藤秀子『勇気、涙、そして愛 前畑は二度がんばりました』ごま書房)。折しも軍国主義が台頭しつつあった時代である。前畑は国威発揚のためにも、4年後のベルリン五輪で金メダルを獲ることを要求されたのである。

 だが、それまで水泳を続ければ、前畑は22歳となり、当時の結婚適齢期をすぎてしまう。結婚か現役続行か、悩みに悩んだ末、彼女は後者を選んだ。女学校を卒業後は椙山女子専門学校に進んで、以前にも増して練習に打ち込む。こうして迎えた1936年のベルリン五輪では、地元・ドイツのゲネンゲルとの接戦を制し、ついに宿願を達成する。

 約束を果たして帰国すると、椙山校長は前畑のために見合い相手を選んでくれていた。翌年、医師と結婚した彼女は兵藤姓となり、2人の男児も儲ける。戦後、夫が急死してからは、母校に勤務しながら、子供たちを育て上げた。

「東洋の魔女」生理でも練習を続けさせて…当時も賛否両論

 女性アスリートがオリンピックで金メダルを獲るため、結婚を先延ばしして現役を続行するというケースは、戦後になっても繰り返された。

 1962年の女子バレーボールの世界選手権で、強豪・ソ連を破って悲願の世界一を達成した日紡貝塚(大日本紡績貝塚工場)の選手たちは、かつての前畑と同様、これを機に引退して結婚するつもりであった。だが、これと前後して行われたIOC総会で、2年後の東京五輪の実施競技にバレーボールの採用が決まる。女子の参加は、男子の出場枠内(16チーム内)にかぎって認められた(最終的に男子10チーム、女子6チームが出場)。女子の団体競技が五輪種目となったのはこれが初めてである。

 すでに「東洋の魔女」と呼ばれていた日紡貝塚は、五輪でも金メダルを期待され、監督の大松博文ともども続投を望む声が高まった。世論に押されて、ついにチームのレギュラーメンバーは1人を除いて全員が大松とともに五輪を目指すことを決める。

【次ページ】 監督が選手たちの“結婚の世話”に奔走

BACK 1 2 3 4 5 NEXT
橋本聖子
小谷実可子
人見絹枝
前畑秀子
河西昌枝
小野清子
東京五輪
オリンピック・パラリンピック

他競技の前後の記事

ページトップ