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「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか? 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/02/28 17:02

「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?<Number Web> photograph by JMPA

1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場した小谷実可子(1988年撮影)

 大松の指導は、たとえ生理でも練習を続けさせるなど女性性をも否定するハードなものであったが(これについては当時から賛否両論があった)、選手たちはそれに耐えて猛練習を続ける。大松自身は、彼女たちの青春を犠牲にしていることに、口には言えないながらも大きな苦痛を感じていたと、のちに明かしている(大松博文『おれについてこい 成せばなる』講談社)。

監督が選手たちの“結婚の世話”に奔走

 ただし、選手たちは大松に必ずしも唯々諾々と従っていたわけではない。キャプテンの河西昌枝(結婚後の姓は中村、1933~2014)は、プレイ中にけがをする恐れがあるにもかかわらず、爪を伸ばして透明のマニキュアを塗るのを欠かさなかった。これについて本人は《女性としての、私なりの気配り》だったとのちに書いているが(河西昌枝『お母さんの金メダル』学習研究社)、大松に対するひそかな抵抗という意味合いもあったのかもしれない。

 東京五輪の閉会式前日に行われた女子バレーボール決勝戦では、やはりソ連が相手となった。多くの国民がテレビ中継を見守るなか、日紡貝塚の選手で組まれた全日本チームは勝利を収める。

 このあと、大松は今度は選手たちの結婚の世話に奔走した。すでに31歳と、当時の女性の平均初婚年齢(24.4歳)を大幅に超えていた河西も、大松から相談を受けた時の首相夫人の佐藤寛子の世話により自衛官と見合いをして、結婚にいたる。披露宴の模様はテレビでも生中継された。

「自分は母親として間違っているのではないか」出産4カ月で復帰

 体操の小野清子(1936~)もまた、日紡貝塚の選手たちと同じく、当初は引退するつもりでいたにもかかわらず、周囲に促されて東京五輪のため現役を続行した。ただ、彼女の場合、続投を決めた時点ですでに結婚して、2児の母親にもなっていた。

【次ページ】 「自分は母親として間違っているのではないか」

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