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「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?
text by

近藤正高Masataka Kondo
photograph byJMPA
posted2021/02/28 17:02

1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場した小谷実可子(1988年撮影)
オリンピックでは20世紀初めまで女子種目はごく一部に限られた。近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンは、女性のスポーツを「見るに堪えない悪趣味なもの」と決めつけていたという(デイビッド・ゴールドブラット『オリンピック全史』志村昌子・二木夢子訳、原書房)。だが、第一次世界大戦を境に、欧米を中心に女性のスポーツ参加が盛んになっていく。それを背景に、1928年のアムステルダム五輪で初めて女子の体操とともに陸上種目が実施された。
日本人女性初のメダリストは「職業婦人」だった
このとき日本女性で初めて五輪に出場した人見絹枝(1907~31)は、優勝間違いなしと見られた100メートルで4位に敗れたため、急遽、自ら申し出て未経験の800メートルに出場。決勝では当時の世界記録保持者であるドイツのラトケとゴール前の死闘の末、胸一つの差で2位でゴールインする。
人見は、当時の言葉でいうところの「職業婦人」としても時代の最先端を行った。二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を卒業後に就職した京都市立第一高等女学校での月給は70円と、大学卒の男子の月給が50円前後だった当時にあっては破格の高給だった(虫明亜呂無『野を駈ける光』ちくま文庫)。その後、彼女は大阪毎日新聞に招聘され、記者として健筆を振るう。
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人見はアムステルダム五輪のあと、1930年のプラハでの第3回女子オリンピックに、若い選手5名を引率して主将兼監督として参加、さらにヨーロッパ各地を親善試合でまわって、翌年帰国する。しかし、このときすでに病魔に侵されており、とうとうその年の8月、24歳の若さで亡くなった。
いくら職業婦人がもてはやされようとも、女性は結婚すれば家庭に入るのが当たり前だったこの時代、もし、人見が生き永らえたのなら、どのような人生を歩んだのだろうか。
結婚か、現役続行か「日本の名誉のために…」
人見の死の翌年、1932年のロサンゼルス五輪では、競泳の前畑秀子(1914~95)が200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得している。タッチの差で優勝を逃したとはいえ、前畑自身は日本記録を更新したこともあり、むしろ満足していた。だが、帰国後、在学していた椙山女学校の校長・椙山正弌(まさかず)に引退を申し出たところ、金メダルを獲るまでやめさせないと強く引き止められる。