将棋PRESSBACK NUMBER
“藤井聡太の大逆転”で思い出す 将棋史に残る伝説の逆転劇<7選>「羽生善治対渡辺明、100年に1度の大勝負も」
text by
相崎修司Shuji Sagasaki
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/02/17 17:01
準決勝と決勝を大逆転で勝ち、3度目の朝日杯優勝を果たした藤井二冠
(2)「何を食べたか覚えていない」“大山時代”を終わらせた一局【1972年】
大山時代に終止符を打ったのが中原誠十六世名人である。1972年に行われた第31期名人戦は大山康晴名人(王位・王将)に、十段と棋聖を保持していた中原が挑戦した。そのシリーズは大山の側から見て●〇●○○●という星取りで推移し、最終第7局を迎えた(なお第2局の最終盤で大山が見せた逆転の妙手は、将棋史上に残る受けと言われている)。
最終第7局は大山優勢で勝負所を迎えた。まもなく2日目の夕食休憩、これを過ぎればあとは終局まで休むことなく指し続ける。休憩に入る5分前に、大山が指した勝ち急ぎの一着が明暗を分けた。
形勢の好転を悟った中原はそのまま休憩に入った。「受け切れると思ったので休憩前に指さなかったんです」と当時の観戦記で触れられている。その時に食べた夕食が何だったか、全く思い出すことが出来なかったそうだ。
大山も休憩中に自身の敗勢を悟った。「食事も胃袋に流し込む感じで終えたことを思い出す」という。「私の生涯に悔いることがあるとするなら、この一戦が最たるものであるかもしれない」とも。
1972年6月8日午後8時45分、大山投了。棋界が大山時代から中原時代に変わった瞬間だった。
(3)「しまった、先に4五歩だった」名人を逃した一手【1975年】
名人を奪取した中原はその翌年に加藤一二三九段の挑戦を退け、翌々年はリベンジマッチに臨んだ大山を降す。そして迎えた第34期名人戦、挑戦者に名乗りを上げたのは大内延介九段。穴熊の使い手で、鋭い攻めから「怒涛流」の異名で知られる。
このシリーズもお互い相譲らず、3勝3敗で第7局を迎える。その最終局は1日目を終えた時点で挑戦者が必勝になっていた。この日の夜、名人を目前にした大内、敗勢の中原、どちらもなかなか寝付けなかったそうだ。
2日目。形勢は依然として大内がいいが、安全策を選んだ結果、流れがだんだんとおかしくなっていく。それでもようやく大内が抜け出した瞬間、痛恨の一着が出てしまった。
▲7一角。この手を見た中原は席を立ち手洗いに向かった。終盤で中原が手洗いに立つのは相手に自身の悪手を悟らせるためだとも言われている。
「しまった、先に4五歩と突くんだった。それで決まっていたでしょう、ね」
当時の観戦記には大内が立会人の塚田正夫名誉十段に思わず問いかけたくだりが紹介されている。もちろん返事などできるものではない。先に歩を突き、数手後に角を打っていればほどなくして大内名人が誕生していたであろう。実に大きな手順前後であった。
九死に一生を得た中原はこの一局を持将棋に持ち込む。そして指し直し局は中原の快勝で、名人位を死守、通算4期とした。中原はこの後名人戦で9連覇を達成。名人獲得通算15期は大山の18期に次ぐ。