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香川、槙野、柏木…「あいつらに追いつくために」 調子乗り世代・柳川雅樹が大学サッカー界で快進撃
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2021/01/22 17:00
2019年から甲南大学で監督を務める柳川雅樹。「調子乗り世代」の1人としてU-20W杯を戦った
U-20W杯後は出場機会が激減
U-20W杯の後、神戸での出番は激減した。1年目の06年はJ2リーグで28試合に出場したが、翌年はチームがJ1へ昇格したこともあり、競争が激化して出場は2試合のみ。09年には背番号3を託されるものの、宮本恒靖が加入したことでさらに立場は厳しいものとなった。
「大ベテランのツネさんが加わったことで、自分は用無しだと思ってしまったんです。でも、それはその時の僕の実力で、決して冷遇されていたわけではなかった。本音を言えば、あの時もう少しだけ我慢して神戸に残っていたら、経験豊富なツネさんからいろんなことを吸収できたかもしれない。ポジション争いに自分から屈してしまったんです。試合に出られないから『クラブを出ていきます』は選手としても人としても未熟だったなと後悔しています」
10年に自らクラブに志願して、J2ヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍。だが、そこでもリーグ6試合の出場に留まり、翌年は神戸に復帰するもシーズン途中にJ2ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)へ。シーズン終了後に神戸から契約満了を告げられた。
内田、香川はA代表にステップアップ。他の選手もJ1クラブでレギュラーの座を掴み始めている。どんどん開く“あいつら”との差。
「19、20歳の頃はまだ試合に出ていない選手が多かったけど、そこから1、2年経つと環境が変化して、徐々に『俺は何してんねん』と自問自答するようになりました。23歳を過ぎた辺りから、『これ以上、置いていかれたくない。何とかして追いつきたい』という気持ちが生まれるようになったんです」
ようやく芽生え始めた反骨心。それでも、なかなか右肩上がりのサッカー人生とはならなかった。12年に加入した栃木SC(J2)でも思うように出番を得られず、13年には移籍したガイナーレ鳥取がJ3へ降格。J2復帰を懸けて臨んだ翌年も後半戦はベンチに回ることが増え、目標を達成できなかった。
追いつくために選んだ地はフィリピン
もがき苦しんでいた柳川に大きな心境の変化が訪れたのは15年。
「ウッチーや真司ら多くの選手が海外挑戦しているのに、(遅れを取っている)僕が日本にいては何も変わらない。どうやっても追いつけない。(年齢的にも)海外のトップリーグに行くのは難しいならば、別の場所で経験を積み、何かしらの形でみんなに追い付きたい、認めてもらいたいという気持ちがありました」
セカンドキャリアも見据え、探したのは英語圏内の国で現役としてプレーできる場所。その条件に合致したのがフィリピンだった。
1年目はグローバルFCでプレー。しかし、選手としてプレーするだけでは経験値は増えないと考えた柳川は、日本人がオーナーを務めるJPVマリキナFCに自ら「選手兼コーチ」として売り込み、移籍を勝ち取った。
「当時から指導者に興味があって、もしフィリピンに日本の戦術やチーム作りを持ち込んだら絶対に勝てると思ったんです」
選手、監督、GM、広報
1部昇格を果たしたばかりのJPVマリキナFCでは、主軸CBとしてプレーする傍ら、実質監督として日々の練習メニューを構築し、戦術を植え付けていった。すると1部に昇格したばかりの小さな地方クラブがいきなりリーグ3位に躍進。2年目の17年には、選手獲得や国際移籍証明の手続きなどGMとしての役割も託された。さらにクラブの日本語版・英語版のホームページ制作やSNSの立ち上げなど広報としても奮闘。1人で何役もこなした。
「試合が終わると、ユニフォーム姿のまま録音機を持って他の選手やコーチにインタビュー。すぐに文字に起こして、ホームページやSNSにアップ。応援歌も自分で作りましたよ。フィリピンにはサポーター集団がないので、日本の応援の仕方を教えたり、英語でチャントを作ったりして、子どもたちに歌ってもらいました。それをホームページに載せてスタジアムで一緒に歌ってください、とか。その他、新リーグ発足時にはPFF(フィリピンサッカー協会)との交渉やホームスタジアムの選定、芝生の管理まで。本当に何でもやっていましたね。
僕は性格的に細かいし、根気強くいろんなことができるのが強みだと思っている。そこに『このままじゃ絶対に追いつけない』という危機感が加わって、それが原動力となっていました」