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張本勲26歳、大リーガーをメッタ打ち! 打率.568の三冠王 “伝説の1966年ブラジル遠征”【現地紙で発掘】
posted2021/01/17 06:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
「私の野球人生において非常に大きな意味を持つことになった。もし行っていなければ、その後の私はなかったと言ってもいい。それは、翌67年からの私の成績を見てもらえれば、よく分かるだろう」
(「週刊ベースボール」2020年11月16日号/「張本勲の『喝!!』」より。以下引用は同じ)。
稀代の大打者がこう言い切る54年前の海外遠征がある。
東映フライヤーズが挑んだ国際トーナメント
1966年11月、スポーツや芸能の興行を行なうブラジルの会社が東映フライヤーズ、MLB(メジャーリーグ)選抜、パナマ選抜を招いて野球の国際トーナメントを催した。南米最大の経済都市サンパウロを皮切りにサンパウロ州とパラナ州を転戦し、各チームが10~11試合を行なった。
このときの東映の4番バッターが、当時26歳の張本勲だった。
1959年に浪商から東映フライヤーズへ入団し、後に読売ジャイアンツ、ロッテ・オリオンズでも活躍。1981年までの23年間に日本プロ野球最多の3085安打を積み重ね、1676打点、504本塁打。首位打者7回は、イチローと並んで歴代最多だ。
ブラジル遠征後、4年連続首位打者に
1966年はプロ8年目で成績は打率.330、90打点、28本塁打。1961年に.336で首位打者のタイトルを獲得しており、8年間の通算打率は.309。すでにかなりの好打者だった。しかしこの遠征後、1967年から1970年まで実に4年連続で首位打者に輝き、この間の平均打率が.348。“好打者”から“とてつもない打者”へと変貌した。
その理由が、1966年末のブラジル遠征にあったと言うのである。
この遠征には日本のメディアが誰も同行しなかった。それゆえ、これまで日本ではほとんど報道されていない。一体、それはどのような遠征だったのか。