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大阪の“消えた野球場”…野茂も投げた「藤井寺球場」、今は何がある? “最後の近鉄戦士”が知る16年前のあの日
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2020/12/23 11:05
1993年、藤井寺球場での開幕戦を完投勝利で飾り、笑顔で光山や石井(右)と握手する野茂
しかし、思わぬところから待ったがかかる。藤井寺球場の近くに住んでいた人たちから、「ナイター公害反対」として工事差し止めの訴訟を起こされてしまった。原告の「ナイター公害反対連合会」の会長は、当時の新聞で“大の巨人ファン”とした上で「住んでいる私たちのことなど頭にないんでしょうね」と近鉄を手厳しく批判している。
「こんなひどい仕打ちをするのは許せません」
話をややこしくしたのは、ナイター公害反対を唱えた住民たちが近鉄が分譲した住宅で暮らしていたことだ。もとをたどると、近鉄のルーツのひとつである大阪鉄道が1927年に藤井寺で宅地分譲を始め、翌年には宅地開発の一環として藤井寺球場と藤井寺教材園(植物園のようなもの)を設けている。晩年の藤井寺球場はその狭さが代名詞になっていたほどだが、戦前の藤井寺球場は収容人員7万人、東洋一とも謳われた大鉄傘が設けられていたという。同じ関西のライバル私鉄、阪神電鉄の阪神甲子園球場を意識していたのだろうか。近鉄球団が発足したのは戦後の1949年で、それまでは関西六大学野球などで使われていた(その後、球場の規模は縮小されるのだが、その詳しい経緯はよく分かっていない)。
ともあれ、藤井寺球場はナイター試合などをやるような球場としてではなく、郊外の分譲地の遊興設備として設けられたのがはじまりだった。ともに完成した藤井寺教材園はわずか4年で閉鎖されてしまうが、その跡地も分譲地に転用され、球場の周りは近鉄の分譲地で取り囲まれてゆく。戦後になって、近鉄バファローズの弱さもあってか、近鉄はあろうことか「郊外の静かな暮らし」を売り物にして宅地開発を進めてしまったのだ。
先のナイター公害反対連合会の会長さんも「静かな環境を売りものにしておいてこんなひどい仕打ちをするのは許せません」と憤る。ごもっとも、である。バファローズが強くなってナイター設備が必要になるなんて、誰も思っていなかったのだろうか。阪急や阪神といった他の関西私鉄と同じように手掛けたはずの沿線開発がこうした結果を生んでしまったのはなんとも皮肉である。