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室伏広治伝説を旧友・照英が語る「やったことがないやり投げに出て、いきなり国体2位ですからね…」 

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谷川良介

谷川良介Ryosuke Tanikawa

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posted2020/11/11 11:02

室伏広治伝説を旧友・照英が語る「やったことがないやり投げに出て、いきなり国体2位ですからね…」<Number Web> photograph by Shoei

室伏広治氏とは中学時代から知る間柄だという照英さん。国際大会初メダルとなった2001年世界陸上ではキャスターとして再会した

92年国体、慣れないやり投で2位

――今回、伺いたいのは高校3年生の照英さんも出場した1992年べにばな国体(山形)のお話です。やり投の記録を見ると、室伏さんが2位になっています。

 そうなんですよ! コウジはやり投の選手じゃないですからね(笑)。

 高校になると砲丸投・やり投・円盤投・ハンマー投と投てき競技は4択になります。複数掛け持ちする選手もいますが、コウジはやり投の「や」も知らないハンマー投の選手だったんです。そもそも、国体には投てき種目が2つしかありません。たとえば今年が砲丸投とやり投だったら来年は円盤投とハンマー投と、交互に行われる。

 コウジからしたら92年はハンマー投がなかった。でも身体能力がすごいから、“千葉県の点取り屋さん”として「やり投はどうだい?」という話になったみたいで。現地で会ってびっくりしました。試合前日だったと思うんですけど「投げられないから、教えてよ」と言われて、「こんな感じ?」「ああ、そんな感じ」と。そのぐらいのやり取りしかしてないんですが、私も「うまいねー!」とか言っていましたね(笑)。

 でも、いざ本番になったら68m(68m16)で2位。いきなり投げて、2位ですよ。助走もグジャグジャで、コウジだけ操り人形みたいだった。でも最後の2、3歩だけタタタタと走って、バン、と。それでビューンと飛んで……。

――当時の1位の記録には「大会新」と書いてあります。

 そうでしたね、だからその次の2位ってとんでもないでしょ? ちなみにそこで大会新を出したのが赤嶺永啓という選手。彼は西武ライオンズ・山川穂高選手の高校時代の体育の先生。小柄な選手でしたが、よく試合で競っていました。

 以前に西武ドームで始球式をさせてもらった時、山川選手から「僕の先生のライバルだったんですよね!」と話しかけていただきました(笑)

――照英さんの記録がありません。

 私は怪我をしていて、あの頃は夏のインターハイから全く記録が出ていなかったんです。その前には70mを投げるのではないかと期待されていたので、とても悔しかったですね。国体でもインターハイの雪辱を果たそうとやる気満々でしたが、うまくいかなくて。国体から半年後ぐらいには70mに到達していましたから。

――ということは、もし怪我がなかったら?

 勝っていたかもしれないですね、室伏広治に(笑)。まぁ、でも負けは負けです。ただ、残念な思いよりもコウジの投てきに度肝を抜かれたという驚きの方が記憶に残っていますね。そのままやり投の選手になってもオリンピックに出ていたんじゃないかなと思います。中学時代から知る私としてはそう見ちゃいますよね、どうしても。

室伏広治にも影響を与えた溝口和洋

――照英さんは東海大、室伏さんは中京大に進学。先ほど大学では「別格の存在」とおっしゃっていましたが、交流はありましたか?

 中京大にはやり投で植徹(うえ・とおる)という1つ年下に強い選手がいて、何度か練習にお邪魔していたんです。当時からコウジは1人だけ別メニューというか、独自のトレーニングをしていました。そのコウジを指導していたのが、私たちが崇拝する溝口和洋さん。現在もやり投の日本記録保持者です(87m60/1989年5月27日)。先日バラエティ番組でお会いしましたが、相変わらずオーラが半端なかったですね(笑)

――溝口さんは室伏さんに大きな影響を与えた1人でもあるんですね。

 日本人の投てき選手で「世界の3本に入る選手は現れない」と言われる時代に、溝口さんは世界の壁をぶち破った選手。独自のトレーニング方法で、朝の6時ぐらいから夜までずっと練習していました。それでも世界一になれなかったことを「練習不足だ」とおっしゃったり、伝説はたくさんありますよ。そういう異次元の方が指導していたのだから、コウジが強くなるのも頷けます。

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