フランス・フットボール通信BACK NUMBER
なぜ「伝説的ストライカー」はイングランド代表で“1度しか”戦えず、26歳で引退したのか
posted2020/10/05 06:00
text by
フィリップ・オクレールPhilippe Auclair
photograph by
Daniel Bardou/L’Équipe
フランス・フットボール誌7月28日発売号の特集は「頑張れプティ(小さき者たち)!」である。登録選手が15人しかいないフランスで一番小さなクラブのレポートからはじまり、小型選手の系譜を辿った「身長は問題ではない」、エマニュエル・プティのロングインタビュー、2チームで構成される世界最小のリーグ(シリー諸島)の紹介、また抜き(フランス語ではプティ・ポンという)をめぐる物語、ホッフェンハイムなどヨーロッパの小さな街のクラブの話などが続き、最後を飾るのがブライアン・リトルのインタビューである。
ブライアン・リトル(175cm)もエマニュエル・プティ(185cm)と同様で、名前がリトルというだけでマラドーナやメッシのような小型ではない。だが、リトルこそ、1970年代のアストンビラを象徴するストライカーであり、ビラの伝説そのものでもあった。26歳の若さで現役を引退し、監督として10を超える英国のクラブで指揮を執った。現在66歳になるリトルの実像を、フィリップ・オクレール記者が伝えている。
(田村修一)
◆◆◆
アストンビラは「週給14ポンド」
――あなたはアストンビラで現役引退まで過ごし、その後すぐにビラのコーチに就任しました。ニューカッスル(イングランド北部)出身のあなたが、どうしてミッドランドのクラブと強い結びつきができたのでしょうか?
「アストンビラに行ったのは1967年だったが、叔父で現役時代はウェストハムでプレーしたマルコム・マスグローブがビラのコーチに就いていた。ビラ・パークをはじめてみたときになんて凄いスタジアムだと思った。父は1ポンド10シリングを握らせて私をダラム行きの列車に乗せた。そうやって私は家を出た。イングランドで15歳でも仕事があれば学校を辞められたのはこの年が最後だった。私の場合がそうで、週給5ポンド。宿舎付きだったよ(笑)」
――家を離れての生活にどうやって慣れていきましたか?
「最初のシーズンは、家族から離れて難しかった。16歳ですべてが変わってしまったからね。新しくコーチに就任したフランク・アプトンは私にこう言った。
『練習を見る限り君はスピードがあるし俊敏だ。身体は大きくないがゴールセンスもある』と。
彼は私を中盤やアタッカーで起用した。その後、弟のアランもビラにきて、精神的にだいぶ落ち着いた。ただ、1年後にプロ契約を結べることになったのは大きな驚きだった。監督が私を彼の部屋に招き入れたとき、きっと何かヘマをしたから怒られるのだろうと思った。だが、彼は、プロ契約のオファーを申し出た。何も考えずにサインをしたよ。当時はだいたいこんな感じだった。給料は週給で14ポンド。ビラは3部リーグだったけど、1972年のユースカップでは決勝でリバプールを破って優勝した。アーセナルとチェルシー、それから私のライバルだったトレバー・フランシスのバーミンガム・シティを破っての決勝進出だった。2人は将来を嘱望されたミッドランドの若手ストライカーだったんだ」