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なぜ「伝説的ストライカー」はイングランド代表で“1度しか”戦えず、26歳で引退したのか
text by
フィリップ・オクレールPhilippe Auclair
photograph byDaniel Bardou/L’Équipe
posted2020/10/05 06:00
1997年9月5日、元アストン・ビラのフォワードであるピーター・ウィズ(左)とブライアン・リトル(右)
21歳で代表デビューも「1度だけ」だった
――21歳の若さでイングランド代表に選ばれましたが(1975年5月21日、対ウェールズ戦。2対2の引き分け)、代表歴はその1度だけでした。
「チームが1部に昇格したシーズンだった。私も好調で20得点をあげた。アンディ・グレイがクラブに加入して2人で2トップを組んだ。だが、監督のロン・サウンダースとの関係が次第に悪化した。彼は若手を積極的に起用して、後にリーグ優勝(1981年)ばかりかヨーロッパの頂点にも登り詰めた(1982年)。ピート・ウィズ獲得が鍵だったが、他にもケン・マクノートやデニス・モーティマーもチームに加わり、私も彼らとともにプレーした。偉大なビラの中核が出来上がったが、私は26歳にして最後の試合を戦った。優勝した80~81年シーズンのことだ。怪我が酷くて翌シーズンには引退せざるを得なかった。当時は十字靭帯を切断したら、復帰する術がなかったからね。結局、リーグとカップ、ヨーロッパカップを合わせてビラで302試合に出場した。悪くない数字だと思っている」
――最高の瞬間(チャンピオンズカップ優勝)を味わえなかったのは残念ではありませんでしたか?
「いや、私も試合にいたからね(笑)。決勝(1982年5月26日、ロッテルダムで行われた試合はピート・ウィズのゴールでビラがバイエルン・ミュンヘンを1対0で破り初優勝を遂げた)はスタンドで見ていた。またリーグタイトルを獲得した日には、私はサポーターのアソシエーションと一緒だった。クラブからアンバサダーの役割を与えられて、それは今も続けている。サッカーの楽しみ方をこのときに覚えたよ」
「自分自身がボスでありたかったからクラブを去った」
――それからコーチになりましたが……。
「すぐにではなかった。3カ月だけど印刷工場で働いた。でも仕事を好きになれなくて、扉を叩いて出ていった。その後はアストンビラのショップの店員を4カ月ほど務めた。ロン・サウンダースがチームを去り、新監督に就任したトニー・バートンがやって来てこう言ったんだ。
『3週間ほど若手のコーチをやらないか?』と。
2つ返事で引き受けたよ。そして3週間がいつの間にか3年になった。本当にタイミングが良かったと思っている。ショップの店員をやらなかったら、コーチングライセンスを持たない私がビラの監督(1994~98年)にはなれなかったからね。監督の仕事は大好きだし性に合っていると思う」
――しかしあなたは監督になるためにビラを離れねばなりませんでした。
「私は頭が固い。トップチームの問題を(ヨーロッパカップ優勝後に)見つけて疑問に感じた。『どうして私の意見を聞かないのか?』とチームを去った。どこに行く当てもなかったが、ウルブスが私の助けを求めてきた。ところが6試合を消化したところで新オーナーが私を馘にした。すると今度はブルース・リオクが私をミドルスブラに呼んだ。われわれは3シーズンでクラブを3部から1部に昇格させた。ただ、私は自分自身がボスでありたかったからクラブを去った。