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なぜ「伝説的ストライカー」はイングランド代表で“1度しか”戦えず、26歳で引退したのか
text by
フィリップ・オクレールPhilippe Auclair
photograph byDaniel Bardou/L’Équipe
posted2020/10/05 06:00
1997年9月5日、元アストン・ビラのフォワードであるピーター・ウィズ(左)とブライアン・リトル(右)
そして再び無職になると、1週間後にダーリントンからオファーを受けた。33歳になっていたが、最初の監督の仕事は悪くはなかった。私が赴任したときクラブはリーグ最下位で、このシーズンは降格したが私はそのまま監督で残った。そして続く2シーズンを連続して昇格し、2年後には4部に上がった。それからレスター(1991~94年)に行き、そこでも3つの昇格プレーオフを勝ち上がって1部に上がることができた。ダービー・カウンティとのプレーオフ決勝は素晴らしい試合だった」
「もっとサッカーに貢献できたかもしれないが……」
――そのころから明確なプレーの理念を持っていたのですか?
「ああ、3バックのディフェンスをベースに2人のアタッカーをトップに置いた。ダイレクトプレーが中心で、マネとサラーに長いボールを送る今のリバプールとそんなに違わない。ビラは後方にガレス・サウスゲイトとウーゴ・エヒオグ、ポール・マクグラスがいた。前に関してはディーン・サウンダースとダリアン・アトキンソンを売る決断をした。ドワイト・ヨークが前線でプレーすべきだと考えたからだ。
彼ら2人がいては、ヨークがマッチウィナーになることの妨げにしかならない。だが、ヨークも、私にとってアンディ・グレイがそうであったように、またゲリー・ショウにピート・ウィズがいたように、頼りになるパートナーを必要としていた。それもできれば左利きの。パルチザン・ベオグラードのサボ・ミロセビッチがまさにそんな選手だった。ただ、私はビデオでしか見たことがなかったから、テリー・ベナブルスをユーゴに派遣して実際のプレーを観察させた。こうして私のデュオが出来あがったんだ」
――そしてビラは1995~96年に最高のシーズンを迎えます。FAカップは準決勝に進みリーグも4位。リーグカップには優勝して、クラブに最後のタイトルをもたらしました。しかしその1年半後にあなたは再びクラブを去りました。まだ43歳で、偉大な監督になっていく予感がありました。しかしストークとハルで結果を残したものの、次第にフェイドアウトしていったのはどうしてでしょうか?
「ウェストブロムウィッチに行った(1999年)ように、選択を間違えたこともあった。言っただろう、私は頑固だと。もっとサッカーに貢献できたかもしれないが、後悔は何もないし辛いとも思わない。自分の人生に満足している。私の時代のビラは、プレミアリーグで4位と5位の結果を残した。ヨーロッパカップでは準々決勝(1998年のUEFAカップ、アトレティコ・マドリーに0-1、2-1で敗れた)までいった。悪くはないだろう。違うかい?」
――そうかも知れません。ありがとうございました。