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『ハイキュー!!』のおかげで浸透中? バラバラなバレー用語に一石を投じた名将の存在 

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市川忍

市川忍Shinobu Ichikawa

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posted2020/09/28 07:00

『ハイキュー!!』のおかげで浸透中? バラバラなバレー用語に一石を投じた名将の存在<Number Web> photograph by AFLO SPORT

『ハイキュー!!』が参考にしたという『バレーペディア』は、名将アリー・セリンジャーから影響を受けたものだった

初めて見る用語がいっぱい

「とにかく驚きました。我々が初めて見る用語がいっぱい載っているわけです。たとえば『ハイキュー!!』にも登場する“テンポ”の理論も載っていて、これまで我々のような指導者やプレーヤーがゲームではやっていたものの、呼び方の決まっていなかったプレーや戦術、フォーメーションにきちんと名前がついていた。『こういう言葉で表すのか』と非常に参考になりました。

 それまでの日本には、まず、ひとつひとつの動作に名前をつけようとする人がいなかった。ボールを拾う動作はすべて“レシーブ”で、サーブレシーブとスパイクレシーブを分けて名付けているのを知り、サーブを拾うことと、スパイクを拾うことは違うという認識をもたせてくれました」(河合氏)

 この本がなかったら『バレーペディア』は完成しなかったと河合氏は振り返る。

『パワーバレーボール』の著者、アリー・セリンジャーは、日本の女子バレーボールの発展に大いに貢献した人物である。1984年のロスアンゼルス五輪でアメリカ女子を、1992年バルセロナ五輪ではオランダ男子を指揮し、それぞれを銀メダル獲得に導いた。

 1989年に来日し、ダイエー・オレンジアタッカーズの監督に就任。日本リーグ、Vリーグ、黒鷲旗あわせて6回の優勝を成し遂げ、2000年にはVリーグ1部昇格を決めたばかりのパイオニアレッドウィングスの監督となり2度、優勝に導いた。男子並みのパワフルなバックアタックを用いた戦術でチームを強化し、全日本でも活躍した山内美加、佐々木みき、吉原知子(現JT監督)らを育てた。

あいまいな感覚ではなく、決まりごとにする

 その、セリンジャー監督のもとで長年コーチを務め、現在はトヨタ車体クインシーズで指揮を執る印東玄弥監督は振り返る。

「セリンジャーさんと出会ったころのことは鮮明に覚えています。使い古された表現ですが、とにかく目から鱗が落ちました。セリンジャーさんが日本に来たのは1989年。わたしがダイエー・オレンジアタッカーズのコーチに就任した95年には、すでに選手たちは“スロット”や“テンポ”の概念を理解して練習していました。今まで明確ではなかったものに、こういう名前があったのかと驚きました」

 スロットとは自軍のコートをネットに向かって縦に、1メートル間隔で9つに割り、それぞれの位置に記号と番号をふった“場所の呼称”だ。こうしてコート上の場所を、記号と番号で表すことで、たとえばスロット番号5の位置からファースト(First:第1の)テンポで打つアタックを「51」、スロット番号5の位置から、セカンド(第2の)テンポで打つアタックを「52」と呼び、セリンジャー氏は練習や試合中に使用した。

「そのプレーに名前があることで、説明を短縮することができます。同時に、個々のあいまいな感覚で打つ位置を決めるのではなく、チームのシステム(決まり事)となれば誰でも再現が可能となります。おそらく当時、ほかのチームでは使っていなかったであろう用語を、移籍してくる選手がダイエーで初めて知って、覚えていく様子を目の当たりにしていました。ですから90年代辺りでそういった用語を使って練習、試合をしていたチームはダイエーだけだったのではないかと思います」(印東氏)

 こうして、セリンジャーによって日本に持ち込まれたバレーボールの専門用語が、20年近い時を経て、『ハイキュー!!』によって幅広い層に届いたのである。

【次ページ】 なぜバレー用語は浸透しない?

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